広告取引の近代化

編集部
2002年11月25日 00:00 Vol.2

広告取引の近代化

かつてわが国では、広告代理店の社会的地位はきわめて低く見られていました。それは広告取引そのものの前時代性、すなわち明治以来の古い取引慣行から抜け出せない広告界の旧弊が、広告代理店に凝縮されていたといっても過言ではありません。

1947年(昭和22年)6月23日、株式会社電通第4代社長に就任した吉田秀雄は、その就任挨拶で、「私は先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ます」(電通報1947年6月25日号)と語っています。

弱冠43歳で社長に就任した吉田は、広告代理店の文化水準の向上は広告取引そのものの近代化を無くしてはあり得ないと考えました。そしてそのためには、まず広告料金の算定基準の曖昧さを無くし、広告取引そのものを透明で合理的なものとすることが必要であり、だれでもが納得できる広告取引のルール作りこそ自分たちが取り組むべき喫緊の課題であると考えました。

当時の広告取引の多くは、新聞社が設けた広告単価をもとに取引を仲立ちする広告代理店の外交員が自己裁量によって価格を決定するのが普通でした。そこでは、ダンピングともいえる極端な“値引き”や“持ち単価制”とよばれる広告主によって単価が異なる取引が横行し、広告主サイドからはしばしば問題提起がなされましたが、結局は改善されること無く戦後まで引き継がれてきました。
いまでこそ近代的なビジネスとして世界有数の規模と水準を誇るわが国の広告界も、実は半世紀ほど以前はまだそんな状況にあったのです。

1947年11月、戦中から続いていた新聞広告料金の統制が撤廃され、続いて1951年5月には新聞用紙の供給制限が撤廃、広告界はいよいよ自由競争へと突入することになりました。新聞各社は一斉に増ページを実施し、数年後には広告スペースの急増に広告の集稿が追い付かない広告スペースの供給過剰に陥ります。結果として、戦中の新聞用紙不足と統制によって姿を消していた新聞広告料金の“値引き競争”や“持ち単価制”とよばれる取引が復活し、情勢はむしろ吉田が目指していた広告取引の近代化に逆行する可能性が濃厚になりました。
事態を重視した吉田は、まず新聞広告料金の逓減料率制の導入を提唱しました。すなわち、それまで広告掲載量に関係なく決められてきた広告単価こそが、無原則な値引き競争や不公平な価格設定の原因であるとして、広告掲載量に従って割引率を増加するという、いわゆる「逓減料率」の導入を主張したのです。

1952年年11月1日付の電通報は「広告掲載量に従って割引率を増加するという逓減料率を公定し、それによって、現に行われつつある秘密取引を一掃することが目下の急務である」とする主張を掲げ、広く広告界に問題提起を行いました。
この提唱はその後、次第に同じ問題意識を抱える新聞広告関係者の支持を集めるところとなり、様々な曲折を経たものの1960年の朝日新聞社を皮切りに、逓減料率制を採用する新聞社が相次ぎ、広告取引の透明化、近代化は一気に加速することになりました。

新聞広告の逓減料率制の導入を可能にしたもう一つの条件に、吉田が推進した新聞発行部数公開制度の確立があります。かつてわが国の新聞各社の発行部数は経営上の最高機密であり、新聞社が設定する広告単価は発行部数に製作原価を加味したものとはいうものの、客観的な発行部数が公表されていない以上、依然、不透明なものでした。戦後まもなく、GHQの勧告を受けて日本新聞協会内部でも「自由価格による適正料金を作るには発行部数を公表することが必要である」との提案がなされましたが、その実現にはその後さらに多くの歳月を要しました。

吉田は機会あるごとに制度の導入を訴え、また電通の活動を通じて様々な場において関係業界の議論を終止リードさせました。その結果、1950年に至り広告主・広告代理業・媒体社の3社で構成する日本広告会から、発行部数公開を要望する申し入れが日本新聞協会に出され、1952年10月、今日の日本ABC協会の前身であるABC懇談会が成立しました。
翌53年4月には、会員新聞社28社からの報告部数にもとづく第1回の発行部数報告書が公表され、新聞発行部数公開制度が不完全ながらも一歩を踏み出しました。
今日の広告界は、このような「広告の鬼」吉田秀雄が残した贈り物の上に、その近代化を進めてきたといえるでしょう。