公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団 Yoshida Hideo Memorial Foundation

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略歴

 吉田秀雄は、1903年(明治36年)11月、福岡県の小倉で生まれました。両親と兄、二人の妹の六人家族。少年時代に父親を失い、養子縁組に出された彼の暮らしは、けっして平坦なものではありませんでした。しかし、父親譲りの気骨あふれる性格と、養父母のもとから通った東京帝国大学時代に身につけた商業センスをもとに、やがて彼は日本産業界の一時代を築きあげたのです。

 吉田秀雄が電通の前身である日本電報通信社に入社したのは、1928年(昭和3年)4月。地方内勤課勤務にはじまり、営業局地方部長、取締役、常務取締役を経て、43歳という若さで電通の代表取締役社長に就任したのが、1947年(昭和22年)6月のこと。折しも日本国憲法が施行された直後、まさに戦後日本が新しい時代を歩み始めた時でした。

 近代化の道をたどる日本の産業社会にあって、彼は枚挙にいとまがないほどの業績と足跡をしるしました。広告に関連するものだけでも、広告取引の適正化や、「日本広告会」の結成、「国際広告協会(IAA)」の極東地区副会長就任、「日本国際広告協会」の創立、「アジア国際広告会議」の開催、アジア初の「IAA賞」受賞などがあります。
 また、日本の民間放送の開始にいち早く取り組み、民放発足後の初期の発展に主導的役割を果たしました。現在ではすっかり定着している、テレビの視聴率調査装置を完成させたのも彼でした。

 一方で、吉田秀雄は多くの人々の心にも影響を与え、鮮明な記憶を残しました。彼は古き佳き時代の「日本男児」らしい厳しさと、豪放磊落さを備えた人物であったことが知られています。時には部下を激しく叱り飛ばすこともありましたが、すぐに機嫌をなおして笑顔を見せ、根に持つことがなかったようです。
 こうした人柄ゆえに、彼は周囲の人々の心をとらえ、恐れられながらも尊敬され愛されていたのです。そして、現在でも彼の意志は脈々と受け継がれ、若い人材ひとりひとりが広告人として大きく育っているのです。

 戦後の電通再建はもちろんのこと、広く日本の広告業界の確立、さらには新しい産業社会の形成に人一倍の熱意を燃やし日々奔走した男、吉田秀雄。その猛烈さゆえに、数々の伝説を残した”広告の鬼”は、半面、人の心を魅了する広告効果を計算し尽くしていた、緻密なビジネスマンでもあったのです。