

| 西暦 | 年齢 | 吉田秀雄の歩み | 広告界の動き |
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| 1903 | 11月9日 父渡辺勝五郎(34歳)、母サト(21歳)の二男として小倉で誕生 | 煙草専売法の可決により、村井商会・岩谷兄弟商会の煙草販売宣伝合戦が終幕 | |
| 1906 | 株式会社日本電報通信社設立 | ||
| 1909 | 東京市内電車は鉄道馬車から電車に変わり、このころ電車の車内広告が盛んになる | ||
| 1911 | 6 | 一家4人(母、兄二人の妹)で父が働いている台湾に赴く | 屋外広告物を対象とした「広告物取締り法」が公布 |
| 1913 | 8 | 父のみを台湾に残し、母とともに小倉に戻る | 広告軽気球が全国巡回する |
| 1914 | 9 | 父勝五郎が高雄港の埠頭工事中に事故死。 新聞配達で家計を援助 |
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| 1917 | 12 | 小倉中学に入学。横井家の養子となるが、横井家に実子誕生し縁組解消となる。 翌大正7年吉田一次の養子となる |
大阪で「商業美術振興運動」が起こり、初めて「商業美術」の名が登場する |
| 1921 | 16 | 小倉中学の4年を終了と同時に、鹿児島の第7高等学校に入学 | |
| 1923 | 19 | 東京帝国大学経済学部に入学 | |
| 1925 | 21 | 小倉の旧家で醸造業を営む小林家の娘で東京の実践女学校に通っていた雪枝と小倉で結婚式を挙げる。 長男宏誕生 |
報知、東京朝日など全国一流8新聞社が「新聞連合」を組織。 3月東京放送局、ラジオ試験放送開始 |
| 1926 | 22 | 1冊1円の円本ブーム。出版広告が活況 | |
| 1927 | 23 | 浅草〜上野間、初の地下鉄開業。車内広告・駅広告が盛んに扱われる | |
| 1928 | 24 | 日本電報通信社(現電通)に入社。 地方内勤課に配属される |
東京〜大阪間の中継で、大阪のラジオ放送開始 |
| 1929 | 25 | 大卒新入社員とともに英米の広告文献により「広告とは何か」を勉強 | |
| 1933 | 29 | 光永社長に随行し、満州国を視察旅行 | |
| 1934 | 30 | パリで2週間「日本商業美術展」が開かれる | |
| 1936 | 32 | 電通は通信部門と別れ広告専門会社として改組される | 大阪で「広告文案家協会」が結成される |
| 1937 | 33 | 戦前の広告最盛期。全新聞広告数量は2億5766万行 | |
| 1940 | 35 | 「献納広告」が登場する。(「贅沢は敵だ」8月1日東京朝日新聞)公共標識以外のネオンサイン、広告塔の点灯一斉禁止となる。 | |
| 1942 | 38 | 常務取締役に就任 | 戦時特別税として屋外広告物に広告税課税となる |
| 1943 | 39 | 商工省の勧告に基づく広告代理業整備に尽力、全国186社を12社に。 電通は全国の16社を吸収 |
決戦標語「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚が配布される |
| 1944 | 40 | 新聞広告料公定問題の解決に努力。 農商務省によって全国50新聞社に対する公定料金が公認 |
各新聞、夕刊廃止 |
| 1945 | 41 | 電通などを中心に「民衆放送」(後の東京放送)開設を申請。 吉田がまとめ役となる |
日本出版協会創立 |
| 1946 | 42 | 広告税法廃止。放送委員会がGHQの覚書により発足 | |
| 1947 | 43 | 上田3代社長がGHQの改正公職追放令に該当し辞任、吉田秀雄が第4代社長に就任 「日本広告会」の設立に尽力 |
GHQが民間放送の開設等を指示 |
| 1949 | 45 | 広告電通賞を制定 学生広告懸賞論文(現学生広告論文電通賞)を制定 本社、各支社にラジオ広告研究会を新設、商業放送開始に備える |
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| 1950 | 46 | 新聞社と広告代理業に対する付加価値税政策に対し、吉田が反対意見を内閣官房長官に提出 民放開始に備えた放送法案審議の参議院公聴会で、吉田が商業放送専門家として意見陳述 「日本新聞広告業者協会」の設立に尽力。幹事長に就任 創立50周年記念事業として第1回広告功労者顕彰17人を発表 |
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| 1951 | 47 | 電通を中心の「東京放送」と新聞社主体の3放送会社が一本化し、「ラジオ東京」として再申請 創立50周年記念事業、広告功労者顕彰の記念碑「平和の群像」が東京・三宅坂に完成 |
9月1日、民間ラジオ放送開始 |
| 1952 | 48 | 広告料金の逓減料率制を提唱 新聞雑誌発行部数公査機関「ABC懇談会」の創立を実現 |
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| 1953 | 49 | NHKテレビ放送開始(2月) 民間テレビ放送開始(8月) |
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| 1955 | 51 | ICC本部広告委員会委員に就任 日本電報通信社が社名を株式会社電通と改める |
民放・広告主両者による「商業放送懇談会」発足 |
| 1956 | 52 | 国際広告協会(IAA)副会長(極東地区担当)を委嘱される | 民放連、テレビ懇談会を設置 |
| 1957 | 53 | 広告電通賞の審査・運営を委ねる機関として、広告電通賞審議会が発足 「全日本新聞社広告会」を設立 「JIAA」(日本国際広告協会)を設立 日本宣伝賞受賞 ICC国内委員会の本部代表委員になる |
日本広告主協会設立 |
| 1958 | 54 | アジア広告会議を開催 米国フォーチュン誌が「広告の大鬼」と題して吉田の業績を紹介 |
TCC発足 |
| 1959 | 55 | 「日本放送連合会」設立、理事に就任 | |
| 1960 | 56 | ACC発足 | |
| 1961 | 57 | 国際広告協会(IAA)から吉田がマン・オブ・ザ・イヤーを受賞 | ニールセン視聴率調査開始 |
| 1962 | 58 | 「全日本広告協議会」が発足。 理事に就任 官邸で池田首相と広告問題で懇談、次官会議で「広告の文化的・経済的使命」を力説 東芝、電通、民放18社出資の「ビデオリサーチ株式会社」創立 |
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| 1963 | 59 | 1月27日逝去、29日従四位勲2等瑞宝章を贈られる |
