人間とテクノロジーとの幸せな関係

2022年12月26日 14:16 Vol.82
   
矢野 和男
(株)ハピネスプラネット代表取締役CEO
Kazuo Yano
1984年早稲田大学大学院物理修士卒業、日立製作所入社。93年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功。2004年からはウェアラブル技術とビッグデータ解析で先行する。ナノテクやAIの開発から、データによる企業業績向上の研究や心理学まで専門性の広さと深さで知られる。幸福度を定量化する技術を実用化、20年に株式会社ハピネスプラネットを設立し現職に就任。論文被引用件数は4,500件、特許出願350件以上。著書に『データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』(2014年)、「予測不能の時代: データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ」(2021年/ともに草思社)。博士(工学)。IEEEフェロー。電子情報通信学会、 応用物理学会、日本物理学会、人工知能学会会員。東京工業大学情報理工学院特定教授。

これまで主に生産性の向上を目的に研究が進められてきた科学技術だが、近年では「テクノロジーで何を解決すべきか」という根本的な議論も少なくない。そしてそのような議論が起こる前から、“ 人間の幸せ”を科学的に探究・追求、幸福度の向上に活用する試みが行われていたのである。テクノロジーを“ 幸せな社会づくり”にどうつなげるのか。その先駆的な研究者に「人間とテクノロジーとの心地よい関係性」という視点で語っていただいた。
text: Masashi Kubota photograph: Kentaro Kase
                                                        

 
 
 
 

幸福とデータの関係

―矢野さんが「幸福」を研究対象にされたきっかけは何だったのですか。

矢野 私は長年、日立製作所で半導体の研究を続けてきたのですが、40代半ばの時に会社が半導体事業をやめてしまいました。そこで「次に何をやるか」ということになったわけです。
私は元々「幸福とは何か」という問題に個人的に関心がありました。これは学生時代からで、人間にとっての究極の価値を考えているうちに、「幸福」に行き着きました。そして一方で、まだ「ビッグデータ」という言葉もなかった時代でしたが、データ解析にも大きな可能性を感じていました。

では幸福とデータを組み合わせたらどうなるのだろう。幸福にデータで意味付けをする。それはほかの人がやっていないので、もしかすると、そこに未知の新大陸があるのではないかと思ったのです。

―日立製作所ではその後、どのような研究を?

矢野 2006年に人の動きや対面の様子を記録できるウェアラブルセンサーを開発し、以後14年にわたり多くの組織で従業員の行動データを集め、それを業務パフォーマンスや質問紙への回答による人の主観的な幸福感の増減と突き合わせて、両者の関係を解析してきました。まだスマートフォンもなかった時代で、世界に先駆けた研究だったと思います。

のべ1,000万件を超えるデータを通じて、従業員が幸せで生産性の高い会社組織には、従業員の行動に幾つかの共通した特徴が見られることがわかってきました。
幸せ度が低く生産性の低い組織では、特定の人がたくさんのつながりを占有し、ほかの人は人とのつながりが少ないという傾向があります。典型的なのが、上司は部下と話しているけれども、部下同士はあまり話せていない状態。従業員が幸せで生産性の高い組織では、人と人とのつながりが均等なのです。

また幸せな集団では、上司と部下だけではなく、さまざまな人同士の組み合せで、5分程度の短い相談や質問や雑談が頻繁に行われています。これは確認したいことや質問したいことがあったとき、その場で気軽に訊ける関係があることを示しています。会議などの集まりの際も、幸せな集団では地位に関わりなく、皆が発言し合っている。

一方、幸せでない集団では、特定の人が独占的に多くの人と会話しており、時間的にも長時間の会話が主流。例えば定例会議などに集中し、それ以外の日には会話がなく、会議でも特定の人のみに発言が偏っている状態です。

―そうした知見を得る過程では、他分野の研究者とも連携されたのですか。

矢野 はい。例えばポジティブ心理学が専門で、「社員が幸せに働くことが、本人の生産性を高め、会社にも利益をもたらす」という考え方を広めた、カリフォルニア大学リバーサイド校教授のソニア・リュボミアスキーさんとは、質問紙を使った心理学の研究と私たちが開発したウェアラブルセンサーによる行動データの計測を組み合わせて共同研究を行いました。

昨年亡くなられてしまいましたが、人が集中している状態「フロー」の研究で知られる、クレアモント大学のミハイ・チクセントミハイ教授とも、身体運動とフローの関係についての共同実験を行っています。こうした共同研究やデータ解析を通じて得た重要な知見が、「生産的で幸せな人とそうでない人を分ける『ファクターX』は何か」ということでした。

 
 
 
 

「V字のつながり」が人を不幸にする

―「ファクターX」は何だったのですか。

矢野 人と人とのつながりを線として描くと、複雑な網目状の模様をつくります。実はこの模様に、幸せを生み出す重要な特徴がありました。それが「三角形」です。
三角形とは、自分とそれぞれにつながりを持つ2人が、2人の間でもつながっていることを示しています。例えば、あなたがAさんとBさんとつながっていたとき、同時にAさんとBさんも直接つながっているという状態です。この三角形については、2014年に上梓した拙著『データの見えざる手』でも、組織の生産性と強く関係していることを紹介しました。三角形があると組織のネットワークの中に近道(バイパス)ができます。これにより情報の拡散力や互いを支援し合う力が高まり、組織の風通しが一気によくなるのです。

その後、さらに多くの実験を重ねて分析を続けるうちに、三角形が生産性だけでなく、そこで働く人の「幸せ」と直結していることが明らかになってきました。

―どういった実験を行ったのですか。

矢野 東京工業大学大学院の三宅美博教授のグループと共同で、業種や職種の異なる10組織で働く449名のコミュニケーションや身体運動を計測、並行して落ち込みやうつの兆候に関する質問紙調査を行い、それぞれの人の周囲とのつながりの構造を調べました。その結果、従業員がコミュニケーションを取っている相手の数や頻度は、うつの兆候とは相関が見られない一方で、その人がよく話をする相手2人が互いに話さない関係にあると、その従業員は落ち込んだり、うつの兆候が出やすくなることを発見したのです。

例えば、ある人が2人とよくコミュニケーションを取っているのに、その2人がお互いコミュニケーションが取れていない、いわば「V字」型の状態だと、その集団は不幸になります。逆に相手2人がよく話している場合は、全員がメンタル的に良好な傾向がありました。3人がそれぞれ他の2人とコミュニケーションを取っている「三角形」のつながりだと、その集団では全員が幸せになるのです。

この成果は現在のハピネスプラネットのサービスのベースともいえるもので、2022年6月に英国科学誌『Nature / Scientific Reports』に掲載されました。

―なぜ人間は、周囲とつながっていないと幸福を感じられないのでしょうか。

矢野 何を「幸せ」と感じるかは、文化や各自の個性によって異なります。しかし、幸せになったときに私たちの身体に生じる変化は、血管や筋肉の弛緩・収縮、血液中のホルモンや免疫物質の変化など、すべての人に共通する普遍的な生理反応です。「幸せだ」という状態に伴ってこうした反応が生じる理由は、そうしたフィードバックがあったほうが生存に有利だったからだと考えられます。

進化の中で、私たち人類の繁栄に決定的に重要だった特徴が「人との協力」でした。人類は仲間との密な協力を是とする進化の道を選んだことで、個体の肉体的な能力では人間をはるかに上回る、トラやマンモスのような巨大動物をも倒せるようになりました。集団で協力し合っての行動こそ、人類の強さの源泉なのです。

そうした人と人との協力を生じやすくするために、人と協力することで幸福感が増し、逆に協力しなかったり孤独だと幸福感が下がるような生化学的な仕組みが、私たちの身体には埋め込まれているのでしょう。

 
 
 
 

コロナ禍で不幸せになる人々

――生存に有利だから仲間を求めるということは、私たちにはそうした行動を本能的に行う面もあるのでしょうか。

矢野 仲間を求める行為、それこそがコミュニケーションです。
霊長類は常に毛づくろいをすることで、「仲間同士だよ」と互いに確かめ合っています。人類も同じで、会話の中で言葉の内容が占める影響の割合は、実は1割程度。残りは声の調子を合わせたり、体の動きをシンクロさせたりといった非言語的な形で「仲間だよ」ということを伝えています。その意味で会話とは、いわば「接触していなくてもできる毛づくろい」なのです。

ところが、近代化とともに人間は頭でっかちになってしまい、機能優先、効率優先の組織をつくり、会話もロジカルに行おうとするように。その結果、各所でV 字型の関係が生じてしまったのです。

―企業では特にそうした分断が起こりやすいのでしょうか。

矢野 そう考えられます。一般的な企業の組織図をパターンとして見てみると、1人の上司の下に複数の部下がつながるV字の階層組織となっており、下に行くほど放射状の模様が広がっていきます。その中で決して見られないのが三角形なのです。V 字とは、いわば用件のみの関係。「必要な情報の伝達のみを行っていればいい」という効率重視の考え方から、そうした関係が生まれてきます。

会社員が幸せになるためには、組織図のV 字の関係を超えた別なつながり、例えば「気軽に相談ができる面倒見のいい先輩」であったり、「立ち話の中でアドバイスをくれる隣の課の課長」といった存在が必要で、そうしたつながりがないとV 字の関係性ばかりとなり、どんどん不幸になってしまうのです。

―現代よりむしろ高度成長期の日本企業のほうが、仲間内でのコミュニケーションを意識していたように思えます。

矢野 人を幸せにする三角形の関係を効果的につくるのが、お花見や運動会、同窓会、卒業パーティといった仕事と関わりのない会合です。職場の中でも飲み会などのインフォーマルな集まりによって、直接的な仕事の関係を超えて人と人がつながっていきます。昭和の時代にはそういった活動が今より活発だったと思いますね。

実はこの三角形、レポートライン上にないインフォーマルな人とのつながりこそ、コロナ禍によるリモートワークの広がりによって、著しく後退してしまった関係性なのです。新型コロナ対策では「3密(密接、密集、密閉)を避けよ」と言われます。しかし実は3密こそ、幸せな集団の条件を満たすために大いに貢献する環境。逆にいうと新型コロナは、人の幸せを求める本能につけ込んで拡散するという、大変いやらしい性格を持ったウイルスといえます。

―新型コロナ対策は、人の幸せには反する制限であるということですね。ただ新型コロナ以前から、人と人のつながりは薄れる傾向があったように思います。

矢野 今のようにリモートワークが広がる前から、「オフィスで隣の席の人ともメールでしかコミュニケーションを取らない」といった現象が話題になっていました。現代の企業では、効率を最優先して無駄を削ぎ落とそうとします。しかしそれだけでは働く人が不幸になってしまう。それを補うコミュニティが必要です。そうしたことは実はずっと前からわかっていました。しかし、どうやって実現するのかが問題でした。

ハピネスプラネットを創業したのは、日立製作所での研究で「ITテクノロジーによって人を生産的に、幸せな状態にするにはどうしたらいいか」というテーマについての知見が集まり、実現の見通しが立ってきたからでもあったのです。

―ハピネスプラネットは2020年7月に設立されたとのこと。矢野さんは日立製作所で研究を続け、フェローにまでなったわけですが、あえて新会社をスタートさせたのはどういったお考えからですか。

矢野 大企業の中では、ゼロから1への事業立ち上げは難しいものがあります。大企業では売上高0円から1億円の事業をつくることよりも、今、売上高1兆円の事業をどう発展させるかのほうが、どうしても優先度が高くなってしまうからです。

だから独立したのですが、そこにはもう一つハードルがありました。これまで日立製作所の従業員として中心となってこの仕事を推進してくれた仲間たちに、「日立を辞めてこちらに来てほしい」とお願いしなければならなかったのです。これにはとても悩みましたが、必要なことだと確信していました。大企業が新会社を立ち上げてもうまくいかないのは、社員を出向という立場にさせるからです。いつでも戻れると思うと真剣に事業に向き合えないし、新会社の制度や従業員の評価も自由にできません。最終的に、中核の人財は、日立製作所を辞めて新会社に転籍してくれました。おかげで新会社を一からつくることができ、私としては身の引き締まる思いでした。

 
 
 
 

「応援」で職場をチームに変える

―ハピネスプラネットでは、どのようなサービスを開発されましたか。

矢野 まず「人が物の見方や行動を変えて、幸せになれるように導ける仕組みをつくりたい」と考え、スマートフォンをツールとし、従業員の前向きな心を引き出すアプリ「Happiness Planet」を開発しました。私たちは行動データから組織の幸福力の指標である「ハピネス関係度」を、この「Happiness Planet」で日ごとに計測できるようにしました。

次に取り組んだのが、組織の中のV 字の関係を三角形に変えていくためのサービスです。ここでの問題は「どのようにして用事のない人の間にコミュニケーションを生むことができるのか」。V 字を三角形にするためには、本来なら仕事では会わないし、会う用事もない人同士をつなげなくてはなりません。しかし用件もない相手としゃべらせようとすると、「無駄」とか「余計なおせっかい」と思われてしまいます。そこをどうつなげ、I T上で実現するのかが課題でした。そこで私たちが考えたのが、「スポーツにあってビジネスにないもの」です。

―それはいったい何ですか?

矢野 「応援」です。
スポーツとビジネスはとても似ています。競争があり、努力が必要で、チームワークが大事です。
スポーツでは活発に応援を行います。観客はチームや選手を応援し、チーム内でも常に互いに声かけし、励まし合っている。それは決して意味もなくやっているわけではありません。スコアに反映されるからこそ、応援しているのです。スポーツにおいて、応援は結果につながる行為。だとすると、おそらくビジネスにおいても同じことがいえるはずです。

そこで私たちは、企業の内部でお互いへの応援が始まるような仕組みを考えました。それが会員制のサービスである「Happiness Planet Gym」です。

   
ハピネスプラネットが提供する組織支援サービスのアプリ「Happiness Planet Gym」は、3~4人による「三角形のつながり」を意図的に作り出す「応援団自動生成機能」を有する。各メンバーは、アプリ(ハピアドバイザー)に促されて日々の前向きな取り組みを表明し、互いに応援メッセージを送り合う。
   
毎朝、宣言を20文字程度で言語化することでモチベーションをアップ。
   
前向きな行動を16個のマトリクスで体系化。ハピアドバイザーからの「今日のおすすめ」をヒントに、職場の仲間に発信する。

―どういったコンセプトのサービスなのですか。

矢野 Happiness Planet Gymは、三角形づくりを通して、部署内や部署間の一体感を高めたり、組織を横断したつながりやエンゲージメントを高めるもので、これらの目的に合った単位で参加していただいています。Happiness Planet Gymではアプリ内のアドバイザーである「ハピアドバイザー」が、ユーザーに毎朝さまざまな視点から、お題あるいは提案を出します。参加者はこれにアプリ上で答えることで「前向きに一日を始める」ことができるのです。そうしたコミュニケーションが幸せで生産的な組織づくりに重要なことが、データで検証されています。

Happiness Planet Gymでは前向きな行動が、16個の表現からなる「The Matrix」として体系化されており、ハピアドバイザーからの提案としてスマートフォンに提示されます。メンバーはこれをヒントに、その日の仕事の予定を思い浮かべながら、前向きに職場の仲間に発信するわけです。

―発信というのは、例えばどのような?

矢野 例えば1人の職場メンバーがその日、実際に仕事を始める前に「今日は先延ばしになっていた新バージョンのテストをやります。まず集中してテスト項目を整理していきます」と、20〜30字の間で書き込みます。するとシステムはそれを上司や同僚に伝え、返信を促します。上司からは「それで私も心安らかに寝られるよ」とか、同僚からは「じゃあ、私も同じように先延ばしにしていた案件を頑張ります」といった応援の書き込みが返されます。ただし業務で忙しい方々が多ければ、参加しているのが、こういうやり取りが特に好きな人や暇な人ばかり、ということにもなりかねない。そこで、システムが週ごとに3人組の応援チームを決め、このチーム内で互いに応援し合う「Hコネクト」という仕組みを開発しました。いわば「応援団」の自動生成機能です。

―「応援団」というと、確かにスポーツのようですね。

矢野 スポーツのチームと同じように、職場では誰もが業務を遂行するプレーヤーであり、お互いのチームメイトです。
ハピアドバイザーは上司と部下の縦の関係だけでなく、同僚、先輩・後輩などの横や斜めにつながる3人組の応援関係が随所に生まれるよう、メンバーを誘導していきます。これにより互いに応援し合ってつながる三角形が職場のあちこちに生まれ、職場全体に前向きな熱意と、幸福感が広がっていくのです。

同時にハピアドバイザーからのサジェストを実行することで、「コハピポイント」と名付けたポイントが貯まります。アプリではチームとしての獲得ポイントを他社の参加チームと競い合い、上位チームが表彰される仕組みにもなっています。ゲーム性を持たせ、楽しく競い合いながら、ハピネス関係度を日々高めていくわけです。

職場をスポーツにおけるワンチームのように変えるこの仕組みを、私たちは「Happiness Planet メソッド」と呼んでいます。皆さん「応援ぐらいならしてもいいか、バチは当たらないし」と思いますよね。それが仕事のためにもなる。応援されたほうはモチベーションが上がり、さらに普段から応援し合う関係になると、わからないことがあったときなどにも気軽に訊きやすくなります。

 
 
 
 

世界の分断をなくしていく

―既にサービスは始まっているのですね。参加された方たちの反応はどうですか。

矢野 2020年の創業から試行錯誤しながら改良を続け、2022年5月に正式にサービスを開始。それから半年ほどを経て、今は約120社、数千人の会員に加入いただいています。

Happiness Planet Gymの仕組みはどんな会社でも、どの職種でも有効なので、「人が力を合わせて働く職場すべて」が対象です。現時点でも自動車、化学などの製造業から不動産、ゼネコンなどインフラ関連、銀行など金融機関、ITや通信会社、医療から広告代理店まで、あらゆる業種からチームが参加されています。会員となった方々からは、「朝から応援を受けて、背中を押してもらえたようで、自信を持って仕事をやり遂げられた」「部下を応援してみて、悩みに気づいたり、刺さる言葉がわかるようになってきた」といった声を頂いています。

「これをやるようになって幸せになりました」と言ってもらうこともあって、それが私にとっての喜びです。そう言ってもらえる仕事はなかなかありませんから。

―矢野さん自身は、AIをどう役立てていらっしゃいますか。

矢野 今、ハピネスプラネットの従業員は十数人ですが、新型コロナの流行下で創業したため、全員が顔を合わせたのは2年間で3回ほどしかありません。しかしHappiness Planet Gymで互いに応援し合うことで、組織として一体感を持って動いています。

マネジャーとしての観点からいわせてもらうと、このシステムがあることで、部下の様子がよくわかります。仕事の報告を聞いているだけでは、部下の心情は捉えられませんが、応援という心のこもったコミュニケーションを交換することで、部下が今何を考えているのか、どんなコンディションにあるのか、よくわかるのです。

―仕事をやった後で「お疲れさま」とねぎらう文化は、元から日本にはあったと思います。ですが「仕事をやる前に応援する」という発想は画期的ですね。

矢野 いろいろ試行錯誤する中で、「それがいいんじゃないか」という結論にたどり着きました。

普通の会社では仕事をする前ではなく、仕事を終えた後に結果を報告させることが多いでしょう。しかしHappiness Planet Gymでは報告はさせません。というのも、報告するとそれが評価の対象になってしまうからです。評価の対象になるとなると、出すほうも「ここまで書いていいのかな」などと、ついいろいろなことを考えてしまいます。なので事後報告はやめて、仕事の後に上司に何か言うとしたら、応援についての感謝の気持ちを伝えるだけという形にしています。

―今後の御社の事業や矢野さんの活動のビジョンについて、お聞かせください。

矢野 私がこれからやりたいことは、まずこのHappiness Planet Gymを世の中に広めること、そして世の中の分断をなくしていくことです。
 今、ビジネスの世界では、「お互い知らないままでも仕事が回るようにしていこう」という方向ばかりに向かっています。しかしそれでは人は幸せになれません。経済はお金のやり取りで成り立っているので、お金さえあれば親しくなくてもとりあえずは回ります。例えばシェフが食材を作っている人の顔を知らなくても、お金を払って買い入れて料理することはできます。ただ、そのようなV 字型の関係でとりあえず業務は成り立っても、人間としての充実感からは離れていくはず。ヒューマニティや人間性を無視しているからです。

現代では企業だけでなく、地域社会でも同じようにコミュニケーションの分断が広がっています。今のハピネスプラネットのお客様はまだ企業だけですが、今後は街づくりなどにも役立てて、地域内でも分断をなくして三角形をつくっていきたいと考えています。介護の現場などでも分断をなくしたいですね。

―同じ職場の仲間以外でも「自動応援」は機能するのでしょうか。

矢野 相手との間に特に仕事の関係がなくても、応援はできます。何かのきっかけ(アイスブレイク)があればいいのです。例えば私は5年前に、犬を飼い始めて、それによってこれまで話したことのなかった人と関わりができるようになりました。朝の犬の散歩の時に、おばあちゃんたちと会話することがよくあります。それは「犬」というきっかけがあるからで、三角形をつくるのも、そのようなきっかけを与えていくことが大事です。

私たちのシステムでは、システムがいろいろな切り口からそうしたきっかけをつくってくれます。それにより、現在は企業の中で新人同士の横のつながりを深めたり、中途採用と新卒採用の社員の交流を深めたりといったことを行っています。

 
 
 
 

科学とは検証できないことを研究すること

―中には未来が見えていると思える専門家もいますが。

矢野 成功した人は開発を行った理由をもっともらしく説明する場合がありますが、実際には思ったとおりになど全然ならないのが当たり前です。なので、専門家が予想したように一般に広まり、社会に組み込まれていくことはほとんどありません。
むしろ人の知恵と時代が関わり合いながら用途を模索し、形作られていくものです。2007年にiPhoneが発売されたときも、それが今のような形で人々の生活に取り込まれていくのか、わかっている人などいなかったと思います。開発した当のスティーブ・ジョブズもわかっていなかったでしょう。わかっていないからこそ、信じて皆について来てほしいと訴えているわけです。

わからないことに取り組むのが仕事という意味では、実はビジネスも同じ。「よくわからないけど、何かありそうだ」と思うところに投資をする。当たれば儲かるし、当たらなければ投資したお金を失う。それがビジネスです。わかっていることだけをやっていても、ジリ貧になっていきます。そこに何かあるとわかってから投資しても、大きな利益を得ることはできません。資本主義の根幹である株式会社の仕組みは、早くリスクを取った人に、より大きなリターンを与えることにあるのですから。

―「科学」「科学的」というと、私たち素人は、着実に証拠を積み上げ前進していくことのように感じます。

矢野 「科学的」という言葉も、大いに勘違いされています。「科学的とは検証されたことだ」と多くの人が思っていますが、それは間違いです。
科学をする人は、わからないから研究している。つまり検証されていないから、科学者の仕事がある。その意味で、検証されていることだけを信じ、そうでないものを信じない者は、科学者ではあり得ません。実際には、検証というのは原理的に不可能で常に仮説でしかなく、データによって否定される可能性に逃げずに向き合い、前進していくのが科学です。これをカール・ポパーは「反証可能性」と言っています。世の中で「科学的」という言葉の意味を、検証済みの事実だけを信じることとするならば、実は科学者がやっていることとは真逆です。一流のサイエンティストほど、「科学とはわからないことに向き合うもの」と考えています。「既に実証されたこと」だけに注目するのは、まだ勉強し始めたばかりの学生か、二流の科学者です。道があるかどうかわからないけれども、「ある」と思って先へ進む。そこが何もない無人島か、未知の新大陸かは、行ってみなければわかりません。ただ信じて進むしかなく、その意味で科学者の仕事には、信仰のような面があるのです。

   
矢野さんの著書。左:最新作は『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』(2021年)。右:2014年に出版された代表作の文庫版『データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』(2018年/ともに草思社)