キャリアの原点と「自分らしさ」
— 石山先生のこれまでのご経歴をお聞かせください。
石山 大学卒業後、日本の総合電機メーカーに入社して18年ほど人事業務を経験しました。その後、40歳を過ぎてから外資系企業2社に転職し、そこでも人事部門で働いていました。実務の世界では約25年間、3社で人事労務部門を担当したことになります。
博士号は、働きながら法政大学の社会人大学院で取得し、2013年から同大学院で社会人の修士論文や博士論文の指導教員として勤務しています。人事の仕事をする人間は、大きく2つのタイプに分けられると考えます。社内でのつながりや円滑なコミュニケーションを優先する人と、積極的に社外の人とのつながりを持とうとする人です。
どちらかというと私は後者で、1社目の日本企業にいた頃から社外の勉強会や研究会に参加することに興味を持ち、さまざまな勉強会を行っていました。
その経験が後に「越境学習」という私の研究テーマに発展していきます。越境学習という言葉は、個人にとってのホーム(慣れ親しんだ環境)とアウェイ(なじみのない新たな環境)との間にある境界を越えて学ぶことを定義としています。社会人大学院での議論の中で、「社外の実践共同体に参加する行為」を「越境」と呼ぶことを知り、自分が趣味のようにやってきたことが研究になると気付いたのです。
その当時は「外で勉強会ばかりしていないで、真面目に本業に取り組み、残業にも対応せよ」という風潮がありました。今も少なからずそうした風潮は存在します。だからこそ、それは誰も手をつけていない研究分野だったんですよ。
その後、当時東京大学に在籍されていた中原淳先生とお話しする機会があり、「越境学習という研究は面白いから、東大の福武ホールでワークショップをしませんか」と声を掛けていただいたのが私の転機になりました。
— 現代社会においての「キャリアデザイン」という言葉についてはどうお考えでしょうか。
石山 キャリアデザインというと「かっこいい仕事や地位を得るためのデザイン」と誤解されることがありますが、本来は「人生そのものをどう生きていくか」という考え方です。
この言葉に含まれる「デザイン」には、キャリアをしっかり計画するというニュアンスがありますが、人生というものは実際にはそう簡単に計画できるものではありません。
例えば、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授は「Planned Happenstance Theory(計画された偶発性理論)」というキャリア理論を提唱しています。彼がキャリアカウンセラーの講演会で「18歳の時点でキャリアカウンセラーになりたいと思っていた人は?」と質問すると、誰も手を挙げなかったというのは有名な話です。
アップル社の創設者であるスティーブ・ジョブズの例も象徴的です。彼は大学を中退した後、ただ興味があったという理由で文字を美しく書く技術を学ぶ、カリグラフィーの授業を聴講していたという話がありますが、後にアップルコンピュータを創業した際、そのカリグラフィーの経験がMacintoshのフォント開発に役立ったといわれています。このように、人は計画したとおりにキャリアを築けるというわけではないのです。
— 日本社会でイメージされる「キャリア観」についてはどう思われますか。
石山 多くの人がキャリアというとワークキャリア、つまり職業人生を中心に思い浮かべるでしょう。しかし、私たちの研究室では基本的にライフキャリア、つまり仕事だけでなく市民としての活動や学び、家庭なども含めた人生全体をキャリアと捉えています。
これは日本における雇用の「3つの無限定性」へのアンチテーゼでもあります。日本では「生産性三原則」の第一原則として「雇用の維持・拡大」が掲げられて以来、「空間無限定」(会社命令での転勤)、「時間無限定」(残業)、「職種無限定」(異動)が当たり前とされてきました。
最近では同意なしの転勤を見直す動きがありますが、この仕組みは世界的に見ると非常識で、ヨーロッパでは同意のない引っ越しを伴う転勤は人権侵害とされるほどです。
しかし、多くの日本企業ではまだ「3つの無限定性」が残っているので、真の意味でのウェルビーイング経営という観点で、この仕組みの見直しを考えるべきだと思います。
— ライフキャリアを考える中で「自分らしい生き方」はどう見つけていくべきでしょうか?
石山 「自分らしさ」というのも難しい概念です。「キャリアジリツ」という言葉にも「自分で立つ(自立)」と「自分で律する(自律)」という2つの意味があります。 自立は経済的な独立を意味し、自律は自分の価値観に沿って自分を律しながらキャリアを主体的に切り拓くという意味です。「その価値観とは何か?」を考えると、簡単に定義できるものではありません。
例えば、「商社で国際業務に携わることが自分らしさだ」「弁護士になることが自分らしさだ」と自分の価値観を外形的に定義してしまうと、それが達成できないときに自分自身を否定することになりかねません。最近では「ドリハラ(ドリームハラスメント)」という言葉もあります。大学などで「ちゃんとしたキャリア目標を考えなさい」「やりたいことをちゃんと持ちなさい」と強調し過ぎると、かえって学生のキャリア観を固定化させてしまうという弊害もあるのです。
だからといって何も考えずに就職活動をすればいいわけでもありません。自分がやっていて楽しいと感じること、情熱を持てることは必ずあるはずですから。
—「自分らしさ」を発揮するためのヒントはありますか。
石山 現在ではさまざまな企業で「ジョブクラフティング」に関するワークショップが行われています。「ジョブクラフティング」は、自分の価値観に合わせて仕事を自分で再創造していくという概念で、これによって既存の枠組みの中でも自分らしさを発揮できる可能性を見出すことができます。
このワークショップでは、まず参加者に自己分析として「自分が仕事上で大事にしている情熱、動機、強み」を考えてもらいます。これは価値観を知るための重要なステップなのですが、会社から指示されたことを長年こなしてきた人にとって、自分の情熱や動機を言語化することは、実は難しいことかもしれません。
しかし、ワークショップの中では、みなさんが楽しそうに情熱や動機、強みについて語り合います。それらは普段の会社生活の中で忘れ去られていたり、抑えられていたりしただけで、本当は自分の中に内在しているものなのです。
— 自分の価値観を掘り起こす作業ですね。
石山 そうです。この自己分析のプロセスがジョブクラフティングの出発点になります。自分の価値観がわからないと、仕事を再創造することはできませんからね。
新しい経験や、今までとは違う分野に挑戦することで「これは意外に面白い」と発見することもあるかもしれません。人はやってみないとわからないことが多く、職場以外で気付くこともあります。
自分らしさというのは一生をかけて探していくものではないでしょうか。それを探し続けるのが人生の旅、ジャーニーなのだと考えたほうがよいでしょう。
ゆるい場で「自分を知る」
—「自分らしさ」を探していく具体的な方法として「越境学習」や「ゆるい場」の重要性を提唱されていますね。
石山 はい。「越境学習」とはホーム(職場など)とアウェイ(職場以外のコミュニティなど)に参加して学ぶことで、その特徴は誰かに強制されるのではなく、自分が好きだから参加するという点にあります。
武蔵小杉には「こすぎの大学」という学び舎があります。これは月に1回ワークショップを開催して、その後はみんなで飲む、という「ゆるい場」です。
そこに行くのは、参加者が楽しいから率先して行っているのであって、誰かに命令されたわけではありません。そういう場で多世代かつ多様な人々との対話をすることで、年齢や地位などの上下関係にとらわれないコミュニケーションをとることができます。そこで今まで気付かなかった自分が大事にしている情熱や動機、強みが見えてくるのです。
また、あるコワーキングスペースでは「チガラボチャレンジ」というワークショップがありました。そこでは自分がやりたいけどできなかったことについて話すことで、他の参加者がチャレンジするためのアドバイスをくれます。このように、アウェイとしての「ゆるい場」は実は近所など身近なところにもあるかもしれず、そこで「自分らしさ」を追求することができるのです。
このようにホームでは知り合えない人たちとの交流によって、自分の興味や関心が明確になっていきます。「ゆるい場」には、ライフキャリアにおいても役立つ部分があると考えています。
最初はアウェイの場に行くと違和感を抱くものですが、アウェイからホームに戻ったときにまた違和感を抱く。これは、越境学習を通して自分の中に価値観の摩擦が起きているということです。こうした摩擦を経て、物事を俯瞰して見られるようになり、新たな気付きを得ることができるのです。
— 気付きを得た上で、より良い環境をつくるには具体的にどのようにしたらよいでしょうか。
石山 埼玉大学の宇田川元一先生のお話によると、「当事者研究」というアプローチがあるそうです。
「当事者研究」は、当事者自身が自分の病気の研究者になるという考え方です。自分の症状や心の声を記録して分析していくもので、自分自身で気付きを得ると、病気が治っていくそうです。このように学校や職場でも、全知全能の教員や上司が、こうしろ、ああしろと指示するだけでは、本質的な物事の解決には至らないのです。
逆にいえば、当事者以外の悪者をつくり出し「あの人たちがいなくなれば世の中よくなる」という考えでも、うまくいかないでしょう。自分も他者も、すべての人々が当事者であるという考え方から出発する必要があります。
日本企業の人材育成とタレントマネジメント
— 日本企業におけるタレントマネジメントのあり方についてはどうお考えですか?
石山 タレントマネジメントとは、自社の従業員一人ひとりが持つ資質や能力を発見・採用し、継続的な成長を促すことによって、その会社で活躍し続けてもらうための仕組みのことです。
この言葉自体はアメリカのコンサルティング会社のマッキンゼーが「War for Talen(t 人材獲得競争)」という概念を1997年に提唱したことから広まったとされています。しかし、その時点では社員をA・B・Cランクに分け、Aランクの人だけを優遇するという点に課題があったとされています。この考え方を忠実に実践したアメリカのエネルギー会社のエンロンに企業倫理の問題が生じてしまったことは有名です。
その後、タレントマネジメントは企業のキーポジションを定義し、それに合った人材を見つけ、育成するという考え方に発展しました。このアプロ―チは「選別型」と呼ばれます。選別型はグローバル経営に有効とされていますが、その他に、「包摂型」という社員全員をタレントと見なす考え方もあります。今後は包摂型と同時に「サステナブルキャリア」、つまりライフキャリアを大切にする持続可能性に基づく人事の重要性が増していくのではないかと考えています。住む場所も選べずに私生活の犠牲を前提とする3つの無限定性が支配的な人事制度においては、従業員が持続的に働けるはずがなく、ウェルビーイング経営は成り立たないでしょう。
— 日本企業の学習環境やキャリア観について変化はあるのでしょうか。
石山 実は、日本企業において学習環境は思ったより変わっていない部分があります。日本的雇用の強みとされてきたのはOJT(オン・ザ・ジョブトレーニング)です。このOJTは法政大学の名誉教授である小池和男先生によれば、日常の職場で学ぶことだけを意味するのではなく、中長期の同一企業におけるジョブ・ローテーションによるキャリア形成の意味も含みます。
日本企業の特徴は「多能工」的な発想で、関連する職域を幅広く経験させることで、オールラウンダーを育てるようにします。一方、欧米のジョブ型は、特定の業務に従事することが中心です。
そのため、日本型OJTでは会社主導で計画的に異動させることで、ワークキャリアに幅広い関連性を持たせます。例えば同期入社の仲間とともに階層別研修を受け、そこで得たつながりから飲食をともにし、情報交換をすることで社内に強力なネットワークをつなげてキャリア形成を行うなどといったことです。
この日本型OJTは従来の日本社会では効率的に機能しており、現在でも日本企業の強みであるともいえますが、問題は多くの企業がこの方式だけが正解だと信じて何も変えていないところにあります。
またメディアでは、日本的雇用は終焉したという論調もありますが、実は3つの無限定性が崩壊したわけではなく、特に正社員の働き方の変化は遅いともいえます。だからこそ、正社員とそれ以外の働き方の処遇格差が改善されないという問題もあります。
— 石山先生は「キャリアブレイク」についても注目されています。着目したきっかけはなんでしょうか。
石山 キャリアブレイクは、早稲田大学講師の片岡亜紀子氏が、私のゼミで研究した修士論文で日本に紹介した考え方です。従来は、日本社会では、離職や無職による職業経験の空白期間を「ブランク」、つまり空白と呼ぶことが一般的だったのではないでしょうか。
でも、これはあくまでワークキャリアの観点からの空白であって、人生全体としてのライフキャリアから見れば、決して空白ではありません。
日本では無意識のうちに離職や無職を空白と見なしてしまいますが、これはワークキャリアに偏った物の見方であり、むしろこうした期間こそさまざまな価値ある経験が積めますし、そこから「ありたい自分」というのが見えてくることがあります。
欧米ではこれを「キャリアブレイク」と呼び、有益な期間と捉えています。この考え方は越境学習にも似ていて、日本的雇用に一石を投じる考え方だと思いました。
いろいろな経験を積むことこそ自分の人生なのですから、もっといろんな選択肢があっていいはずです。
第4世代のキャリア観「サステナブルキャリア」と「エージェンシー」
— これからのキャリア観について、どのような方向性が考えられますか?
石山 今後は「サステナブルキャリア」という考え方が強くなっていくでしょう。これはキャリアという傘の下に組織、職業と個人が位置付けられます。この考えは第4世代のキャリア理論とも呼ばれます。
まず、第1世代のキャリア理論は個人や組織、職業を切り離してどうマッチングすべきか、それにはどんな労働環境が望ましいかなどを検討してきたとされています。しかし、個人も職業も常に変化する世の中では完璧なマッチングはできません。
続いて第2世代は、個人を組織や職業に埋め込まれた存在と位置付け、組織と個人のニーズが一致する状況でのキャリアに注目しています。第1世代と比較すると組織と個人の関係性が強まっているといえるでしょう。
第3世代は「バウンダリーレスキャリア」などに代表されるキャリア理論で、個人に焦点を合わせ、個人が組織や職務を超えて自由にキャリアを形成していくというものです。しかし、この考え方は個人の力だけを強調し過ぎていて、社会には個人の力だけでは乗り越えられないこともあるという批判がありました。例えばコロナ禍のような危機、個人的な予期せぬ出来事に直面することもあるでしょう。
第4世代のサステナブルキャリアは、組織が個人のことを才能を有するタレントとして認め、個人は生涯にわたって世の中が変わっていくこと、個人の力では乗り越えられないことがあることを理解し、そうした限界を理解しつつもそれに絶望せずに社会課題に取り組み、信念を持って持続的に生きていくために主体性を発揮していくという考え方です。この社会という制約を理解しながらも、主体性を発揮していくという主体を「エージェンシー」と呼びます。
「エージェンシー」は、自分が社会に埋め込まれているという限界を理解しながらも、社会を自分の主体性で変えていくことを諦めずに取り組んでいく姿勢です。経済協力開発機構(OECD)では、児童や学生の学習目標を個人の独立した主体性を強調する「オーナーシップ」から、社会という有機的な環境の中での主体性という意味での「エージェンシー」という言葉で表現するように切り替えています。
— エージェンシーを発揮するために、どうしたら社会課題を自分ごととして捉えられるでしょうか。
石山 社会課題を自分ごととして捉える力を育むには、自分ごとではない一般的な「あるべき状態」を学校の授業で教えるだけでは難しいでしょう。自分にとって「これは危機だ」と感じる経験を経て、初めて社会課題を自分ごと化して取り組むことができるのです。
特に東日本大震災やコロナ禍、能登の地震など、大きな出来ごとを経験した若い世代の中には「自分の人生は何のためにあるのか」と社会課題に関心を持つ人が増えていて、越境学習が注目されるのにはこういった背景もあると感じています。
そのために重要なのは仕事だけでなく、さまざまなコミュニティや活動に参加し、自ら越境することです。日本ではNPOやボランティアなどの市民活動が弱いといわれていますが、それは仕事に時間とリソースを振り過ぎているからかもしれません。
社会課題を自分ごと化するためには、社会課題は、実は自分もその一端に関わっているという視点を持つことも重要です。そこから、自分が社会に埋め込まれていることを認識して、エージェンシーを醸成していくのです。
— 社会課題への向き合い方が変わると、個人の幸福感や満足度も変わっていきそうですね。
石山 そうですね。これらをバランスよく考えながら、社会を変えていけるという希望を持ちつつ、自分が社会課題の一部であることを認識し、それでも前に進む。
大切なのは自分と社会との関係を理解し、健康や幸福であることも重視しながら持続的にキャリアを切り拓いていくことではないでしょうか。