AI失業は深刻化するか?
「AIの進歩はいずれ深刻な失業問題をもたらす」といった説に対して、これまで多くの経済学者が否定的な見解を示してきた。蒸気機関などの機械を導入することによって発生した最初の産業革命の際にも、「技術失業」(新しい技術の導入によって起こる失業)が取り沙汰された。だが、そうした失業は、局所的かつ一時的な問題に過ぎなかった。したがって、AI失業についても同じように局所的かつ一時的な問題にとどまるだろうと。
だが、AIは蒸気機関などのほかの機械と同列に扱うことはできない。蒸気機関はどんなに進歩しても人間そっくりに振る舞えるようにならないが、AIは進歩するにつれて人間に近づいてくるからだ。
これまで存在したAIは「特化型AI」と呼ばれており、特定の1つか2つのタスクしかこなせなかった。将棋のAIは将棋しかできず、画像を認識するAIは画像を認識することしかできなかったのである。
それに対して、人間は1人の人が潜在的には、将棋もできるし、猫の画像と犬の画像も見分けられるし、事務作業もできるし、他人とコミュニケーションもできる。人間は言わば汎用的な知性を持っており、さまざまなタスクをこなすことができるのである。
そのため、労働者は機械に仕事を奪われても、ほかの仕事に「労働移動」(転職)することができた。歴史上、技術的失業が、局所的かつ一時的な問題で済んだのは、人間が汎用的な知性を持っているからだ。AIが特化型AIである間は、これまでの機械と同じように人間は労働移動することで、技術的失業の問題を解決できる。
ところが、人間と同様に汎用的な知性を持ち、さまざまなタスクをこなすことのできるAIである「汎用AI」が出現したら、どうだろうか? 人間が労働移動しようにも、あらゆる職場で汎用AIが人間に代わって働くようになるかもしれない。
それでも、そんなとんでもないAIの出現が遠い未来の話であれば、SFめいた与太話と聞き流すこともできるだろう。だが、どうやら汎用AIの出現は間近に迫っているらしい。
汎用AIはいつ出現するか?
発明家で未来予測家のレイ・カーツワイル氏は、汎用AIが出現する時期を2029年と予測している。テスラ社のCEOで世界一の大富豪であるイーロン・マスク氏は、2029年より前と予測した。AI界のゴッドファーザーと呼ばれるAI研究者のジェフリー・ヒントン氏は、2024年のノーベル賞受賞後のインタビューで、汎用AIの出現は早くて5年後、遅くて20年後と述べている。注目すべきなのは、有識者達による予測が年々前倒しになっているという点だ。最近では、汎用AIの出現時期に関する予測時期は、2027年に収束しつつある。
例えば、元OpenAIの研究者のレオポルド・アッシェンブレナー氏が2024年に発表した「Situational awareness: the decade Ahead」という論考では、汎用AIの出現を2027年としている。元OpenAIの研究者のダニエル・ココタイロ氏らが2025年に発表した「AI 2027」というAIの進歩とその社会的な影響に関する未来のシナリオを示した論考でも、汎用AIの出現を2027年としている。
いずれも、AIの未来を予測した論考では、最も注目されているものの1つである。といっても、不確かな未来のことなので、そうした予測を鵜呑みにしないほうがいいだろう。それでも、今のAIの進歩の速さを考えると、汎用AIが2027年に出現してもおかしくはない。
近年のAIの進歩
2023年に第4次AIブームを巻き起こしたChatGPTのような言語生成AIは、それまでのAIに比べると格段に汎用性が高まっている。1つのAIモデルで、文章生成、翻訳、要約、プログラミング、数理的な推論、画像認識、音声対話といったさまざまなタスクが実施可能になっている。
2025年は「AIエージェント」元年と呼ばれており、生成AIがブームになった2023年以来の大きな転換点となるだろう[図表1]。OpenAI社の「Operator」や中国のスタートアップMonica社の「Manus」のような本格的なAIエージェントが登場したからだ。AIエージェントは、人間に代わって自律的に作業をするようなAIである。
株式などの取引を自動で行う「トレーディング・ロボット」やサンフランシスコや北京で実用化されている「無人タクシー」は、人間が目標さえ与えれば、後は自律的に取引したり走行したりするので、しばしばAIエージェントの例として挙げられる。
ただ、最近注目されているOperator やManusのようなAIエージェントは、パソコン上のさまざまな操作を人間に代わって担うようなAIである。「生成からアクションへ」というキャッチコピーが、目下のAI技術における進路変更を表している。文章や画像をつくり出すだけでなく、さまざまな操作が可能になるというわけだ。
例えば、「○月○日に渋谷のフレンチレストランを予約して」とか「東京から京都までの新幹線チケットを買って」「この動画にBGMつけて3分くらいに編集し、タイトルを入れて、YouTubeの限定公開に投稿しておいて」などと依頼すれば、AIがブラウザなどを操作してそのとおりに実施してくれる。
Manusに至っては、「〇〇のようなWebアプリケーションをつくって」というと、プログラミングして実際にアプリケーションをつくってくれるだけでなく、「デプロイ」(サーバーなどに配置して、利用可能な状態にすること)まで担ってくれる。
人間の作業は、指示以外にほとんど必要ない。
いずれ[図表2]のように、会社における仕事の多くは、AIエージェントに委ねられるようになり、人間のホワイトカラーの社員が担う仕事のほとんどは、AIエージェントに対する「ディレクション」(指示)だけになるだろう。そのためには、AIエージェントは汎用AIへと進歩していなくてはならない。
生成AIとAIエージェントの先にある汎用AI
私は、汎用AIを「コンピュータ上で可能なタスクのほとんどを、そのタスクに従事する平均的な専門家以上にこなすことのできるAI」と定義している。この定義にしたがえば、汎用AIは壁にペンキを塗ったり、植物に水をやったりする必要はない。そのような物理的な作業まで人間並みにこなせる機械を「汎用ロボット」と呼び、ここでは区別して考えたい。
汎用AIの定義は人によってさまざまで、例えば「ノーベル賞の発見ができるAI」と定義する研究者もいる。だが、私はAIの汎用性を問う場合、知性の「高さ」よりも「広さ」を重視すべきだと考えている。
AIが、人間の最も賢い人よりも賢いかどうかというのは、知性の高さの問題である。[図表3]のように、こなせるタスクの数が知性の広さということになる。ただし、そうしたタスクがただ増大すればいいということではなく、精度や質が低過ぎれば実用的ではない。
そこで、「そのタスクに従事する平均的な専門家並み」というのを1つの目安として設定することにする。それ以上の質や精度を有しているAIであれば、人間の代わりに利用することができるからだ。
例えば、今やChatGPTのような言語生成AIは、平均的な経済学者よりも、経済学に関する幅広い質問について、正確に答えることができる。未だにAIは、経済学の研究を学者並みに遂行することはできないが、「物知り博士」のような役割としては、人間の学者を超えており、十分に務めを果たすことができる。
このようにして、その作業に従事する平均的な専門家以上にこなせるタスクが増えていけば、いずれ汎用AIと呼んでよいようなAIが出現することになる。そしてそのような汎用AIは、生成AIや続いて出現したエージェントAIの延長上にある。
最近ますます加速しているAIの進歩も考慮にいれれば、2027年の汎用AI 出現について、確実とまではいえないものの否定はもはやできないだろう。
ホワイトカラーの危機はなぜ早く訪れるのか?
こうした汎用AIがもたらす差し迫った問題としては、「ホワイトカラーの危機」が考えられる。いわゆるデスクワークが減らされるということだ。汎用ロボットが、ブルーカラーが担っている肉体労働を減らすようになるとしても、それはかなり後の時期になるだろう。
というのも、1つには汎用ロボットは優れた頭脳だけでなく、手先などの器用さも必要とするからだ。未だに、トマトのような極度に柔らかいものをつかむとか、洗濯物のシャツを広げてたたむといった微細な操作がロボットには難しい。
それでも、例えば汎用AIが2030年までに出現し、汎用ロボットが2030年代のどこかの時点で出現するというようなロードマップが考えられる。ロボットの手先の器用さも、AI(とセンサー技術)の進歩によって、格段に向上しているからである。
だが、そうした純粋に技術的な問題よりも、汎用ロボットの導入コストという経済的な問題のほうが、肉体労働者が失業する「ブルーカラーの危機」が遅れがちになる原因としては大きいはずだ。汎用ロボットの導入には、購入費用以外にも、保守・点検、電力、設置、ソフト更新などの費用が掛かる。そのため、資金的な余裕のない中小企業や発展途上国では導入が特に遅くなるだろう。
それに対して、汎用AIはソフトウェアなので購入費自体が安く、ほかに費用もほとんど掛からない。したがって、汎用AIは生み出された直後から、全世界の人々の利用に供され得る。
業務プロセスの変革に時間が掛かるので、汎用AIも何年も掛けてホワイトカラーの仕事を減少させていくことになるだろう。それでも、汎用ロボットよりもずっと早く普及することになるので、ホワイトカラーの危機こそが差し迫った問題ということができる。
ホワイトカラーはどこへ行くのか?
既存のホワイトカラーの仕事が減ったときに、労働者は一体どこへ行くのだろうか?
1つにはブルーカラーへの労働移動である。この移動は実は、今でも必要とされているが、あまり実現していない。
既に、多くのアジア諸国でホワイトカラーの人余りが問題になっている。その直接的な原因は、大卒の急激な増大にあるが、間接的にはITによる効率化によって人手が節約されていることにある。
日本は少子高齢化ゆえに、ホワイトカラーでもIT系のエンジニアや医療系の専門職のように、人手不足の職種があるが、雇用がだぶついている事務職のような職種もある。一般事務の有効求人倍率は現在0.32倍ほどであり、およそ3人に1人しか採用されない狭き門となっている。
その一方で、建設作業員や介護士などのブルーカラーの職種は深刻な人手不足にあえいでいる。例えば、建設作業員の有効求人倍率は約5倍であり、企業が5人募集しても1人しか応募がなく、慢性的に人手が足りない状態にある。
要するに、今でも労働市場の巨大なミスマッチが発生しており、ホワイトカラーからブルーカラーへの「労働大移動」が必要となっているというわけだ。
汎用AIの普及に対する汎用ロボットの普及の遅れは、このようなミスマッチにますます拍車をかけることになる。したがって、ブルーカラーの賃金と地位を引き上げる政策は、今後ますます重要性を増していくだろう。
私は、このホワイトカラーからブルーカラーへの労働大移動を、望ましいことだと考えている。というのも、職業に貴賎はないはずなのに、ブルーカラーよりもホワイトカラーの職に就くことが過剰に称揚されている現状があるからだ。そのために、勉強が苦手な子供達も、高校や大学で学業に励むことが半ば強いられている。
自分の教え子の中にも、大学で勉強したりデスクワークをしたりするよりも、飲食店で働くほうがずっと楽しいと思っている人達が少なくない。それにもかかわらず、大学を卒業してホワイトカラーの職に就かなければならないと思い込んでいたり、親の目や世間体を気にしていたり、あるいは賃金が安いといった理由で、ホワイトカラーの職を選びがちである。
そもそも、飲食店は人手不足なので、賃金はもっと引き上げられるべきである。店員からスタートしても、いずれは店舗の経営者になることも可能だ。特に、寿司店や和牛ステーキ店などであれば、インバウンドを集客して、かなりの収入を得ることができる。リスクも大きいがやりがいがあり、金銭的にいっても夢のある職業といえるだろう。
私達の人生は、多様な可能性があるはずなのに、大学を卒業しホワイトカラーになるという軌道にあまりにも引き寄せられ過ぎて、収斂し過ぎなのである。一定以上の学力があれば、勉強やデスクワークが本当は苦手であっても、そのような軌道に向かってしまう。
20世紀は、ホワイトカラーの雇用が増大し続けた時代なので、それでも大きな問題はなかった。せいぜい「夢を諦めてサラリーマンになる」というような断念が歌のフレーズとして歌われるくらいだった。
だが、今世紀に入ってから、ITとAIによって、ホワイトカラーの雇用が抑制され、ブルーカラーの人手不足が際立つ時代へと移り変わった。そのような時代には、もっと多様な人生の軌道が肯定されるべきであろう。そのような多様性が、ホワイトカラーからブルーカラーへの労働大移動という形で実現すると考えられるのである。
ホワイトカラーの仕事はなぜ消滅しないのか?
一方で、汎用AIの出現が、ホワイトカラーの仕事を消滅させてしまうわけではなく、ホワイトカラー内での労働移動が起こることも予想される。なぜ、ホワイトカラーの仕事は消滅しないのだろうか?
さきほど私は、汎用AIを「コンピュータ上で可能なタスクのほとんどを、そのタスクに従事する平均的な専門家以上にこなすことのできるAI」として定義した。「ほとんど」としたのは、現在のAI技術の延長上でいくら進歩しても、人間にしか成し得ない仕事が残るからだ。
現在のAI技術は、ニューラルネットワークを基礎にしており、局所的には人間の神経系の構造に類似している。しかし、大局的に見れば、1000億ほどのニューロンや100兆ほどのシナプスからなる脳の丸ごとのコピーではない。そのようなコピーは「全脳エミュレーション」といわれており、実現は22世紀になるとの予測が有力だ。
現在のAIは感性的な判断を成し得るにしても、それは収集されたデータに基づいている。そうしたデータから類推して判断できる場合もあろうが、新規性・独自性の高いものほどそのような類推は働きにくい。
例えば、印象派の絵画が全くこれまで存在していなかった世界線を想定してみよう。そこへ印象派の絵画が出現した場合に、AIはその魅力を見出し得るだろうか? 印象派以前のすべての絵画のデータをAIが読み込んでいたとしても、そのような発見は難しいだろう。なぜなら、過去のデータには、印象派の絵画を人が好んでいるという情報が含まれていないからだ。
こうして鑑みるに、芸術とは一面として人間の「潜在的な感性」を掘り起こす営みでもある。人間は1000億ほどのニューロンと100兆ほどのシナプスからなる自分の脳に問い合わせることができるので、そのような掘り起こしが可能である。だが、AIが判断の際に依拠できるのは、データ化された言わば「顕在的な感性」のみである。
こうした感性に関する人間の優位性は、商品開発の現場でも発揮し得る。例えば、AIに「孫の手」を発明するのは難しいだろう。背中がかゆいので掻きたいけど掻きにくいという感性的な問題が存在することは、ネットの書き込みを見たり、人間に直接教えてもらったりしなければAIは知り得ない。その場合、そうしたもどかしいかゆみは潜在的な感性ということになる。
人間がなんらかの形でAIに伝えて顕在化させなければ、AIはそうした問題を解決するプロダクトをつくることができない。さらには、そのプロダクトによって実際にかゆみが取れるのかどうかを確認する作業も、人間にしか成し得ない。
ディレクションワークとは何か?
このように考えていけば、少なくとも全能エミュレーションが実現しない限り、汎用AIが出現しても、ホワイトカラーの仕事が残ることがわかるだろう。そして、その残る仕事の大半は、「ディレクションワーク」と「ゴーストワーク」という形を取る。
ディレクションワークというのは、例えば、AIに指示してコンテンツやアプリなどをつくるような仕事である。スマホアプリのプログラムをつくるのはAIの仕事になるが、どのようなアプリをつくるのかをAIに指示する仕事は人間が担うようになるというわけだ。
ゴーストワークは、AIがうまく機能するように人間が黒子となって働くような仕事である。これまでであれば、暴力的な画像とそうでない画像をAIが認識できるようになるために、ラベル付けするような人間の仕事がゴーストワークの例として挙げられる。
ディレクションワークもゴーストワークも、前述したとおりにAIが人間の潜在的な感性にアクセスできないがために、必要となるような仕事である。特に、ディレクションワークは今後爆発的に増大するものと考えられる。
以前は、「このようなスマホアプリがつくりたい」というアイディアがあっても、プログラミングなどの技術がなければ実際に開発することができなかった。だが、これからはアイディアさえあれば、AIを使ってそれをすぐ形にすることができる。このことを私は、キャッチコピー的に「アイディア即プロダクト」と言っている。
「即」と言っても、試行錯誤にそれなりの時間を要する。それでも例えば、以前は1人の熟練したエンジニアが、3カ月掛けて開発していたスマホアプリが、何のプログラミング経験もない人が、AIを使って3日も掛からずに完成させられる。そのくらいに時間が圧縮されるようになるだろう。
あるいは、以前には1人の監督と50人のイラストレーターが、1年掛けてつくり上げていたようなアニメ映画の大作が、監督のみがAIを使って1カ月あまりで完成させられるようになる。
イラストレーターという仕事が減少するということは、確かに起きるだろう。実際、中国では既に、テレビゲームのイラストを描く仕事が、生成AIのつくったイラストを微修正する仕事に置き換わりつつあり、報酬が激減している。
だが、これは逆にいえば、誰もが監督になり得る時代の到来を意味している。これまでは、「こういうアニメをつくりたい」という夢があっても、なんらかのきっかけで才能が認められて、資金を集められるようになるまで、アニメ(特に大作アニメ)をつくることは困難だった。
アニメ映画の監督になるには、才能だけではなく、チャンスをつかむ運もなければならなかったのである。しかし、いずれアニメをつくるための資金はそれほど必要なくなる。誰もが、自分ひとりの手で、才能を発揮できるようになるというわけだ。もっといえば、イラストを描く能力がなくても、面白いコンセプトやストーリーのアイディアさえあれば、優れたアニメをつくることもできる。その場合、自分独自の絵柄を表現することはできずにAI任せということになるが、アニメの評価軸は絵柄の優劣だけではないだろう。
漫画では、既に『サイバーパンク桃太郎』のように、すべてAIが生成した絵のみからつくられた作品が登場している。アニメでも『DreadClub: Vampire's Verdict』というすべてAIによってつくられた87分の長編アニメが公開されて、複数の賞を受賞している。
漫画でも、アニメでも、音楽でも、今後はスキルがなくても誰でも作品を制作できる世の中になっていく。A Iを通じてアイディアを形にできる「アイディア即プロダクト」の制作活動が盛んになるのは、喜ばしいことだろう。
経済学者の森永卓郎氏が口にしていた「一億総アーティスト」の時代が到来するともいえる。あるいは、クリエーティブエコノミーが拡大していくともいえる。AI時代は、楽しくて創造的なディレクションワークが増大するのである。
AI時代の教育はどうあるべきか?
ディレクションワークは、何もアート作品の制作ばかりではない。新しい商品を開発することや新しいビジネスモデルをつくるということも含まれる。むしろ、ホワイトカラーの多くは、そういう仕事に従事するようになるだろう。
そのため、知識やスキルがあるだけの労働者は、労働市場で価値を持ちにくくなる。例えば、経理の知識やスキルがあるだけでは、経理用のAIエージェントにとって代わられる可能性が高い。
知識やスキルがあるにこしたことはないが、それよりも必要とされるのは、「創造性」「主体性」「実行力」の3つである。すなわち、何か新しいものをつくり出したいという「主体性」、新しいアイディアを生み出す「創造性」、AIなどを駆使してプロダクトを完成させる「実行力」、こうした能力が何よりも重視されるようになる。
そのためには、詰め込み重視の今の教育は抜本的に改められなければならない。と、そこまでみなが考えることであるが、一体具体的にどのように変革すればいいのだろうか? それは、1つには、主体性、創造性、実行力を育むような「探究的な学習」の強化である。
これまで、日本の教育では、探究的な学習の取り組みが、小学校では自由研究という形でなされており、大学では卒業論文という形でなされていた。だが、その間の中学校や高校では希薄だった。
2022年になってようやく高校で、生徒が自ら問いを立て、調べ、考え、まとめ、発表する「探究」という科目が導入されている。それでも、時間は週1回程度で、教育の重点が置かれているとはとても言い難い。
中学や高校における教育の重心を、受験対策から探究的な学習へ移さなければならない。子供達を「点取りマシーン」に仕立て上げるような非人間的な教育と決別し、子供達の多様性を肯定し、創造性、主体性、実行力を育むような教育へ転換しなければならないのである。
ひょっとするとそれらは、そもそも子供達が潜在的に有している能力であり、今の教育はそのような能力を潰しているだけではないだろうか?
AI時代に、私達が教育や社会、経済のあり方をこの時代に合わせて変革することができれば、人間はもっと本来の人間らしく生きられるようになるのではないだろうか?