自分らしく働くための、居場所づくり

2025年6月26日 11:00 Vol.93
   
石田 光規
早稲田大学文学学術院教授
Mitsunori Ishida
1973年生まれ。2007年東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学(社会学博士)。現在、早稲田大学文学学 術院教授。著書に『孤立の社会学—無縁社会の処方箋』『つながりづくりの隘路—地域社会は再生するのか』(勁草書房)、『郊外社会の分断と再編—つくられたまち・多摩ニュータウンのその後』(編著、晃洋書房)、『友人の社会史—1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)。

個人の考えが尊重される現代において、人付き合いの負担を避ける傾向は強まり、組織においてもつながりの希薄化が課題とされている。その中にあって、仕事はお金を得る手段だけでなく、周囲との関係性を築き社会性を保つ上で重要な役割を果たしているという。社会の変化がコミュニケーションに及ぼす影響を探り、自分らしく働くためのヒントを得るべく、人間関係についての研究を続ける社会学者にお話をうかがった。

 
 
 
 

「人それぞれ」がもたらす課題

— 石田先生には『「人それぞれ」がさみしい』 (ちくまプリマー新書)というご著書があります。「人それぞれ」に寂しさがあるとは、どういったことでしょうか。

石田 「人それぞれ」という言葉には、「個人を尊重している」という響きがあります。人はそれぞれ考え方が違うのだから、自分が好きなようにやればいい。それを認めようじゃないか、ということですね。その一方でこの言葉には、人と自分の間に境界線を引くイメージもあります。人のことには立ち入らないし、自分のことにも立ち入らせない。自分と異なる相手の感性や考え方に共感しようとする努力、自分の感性や考え方に共感してもらうための努力はしない。そんな意図が感じられ、人はそこに孤独を感じてしまうのです。

—「人それぞれ」が、意見の異なる相手の干渉を避け、人間関係の希薄化につながっている、ということでしょうか。

石田 「人それぞれ」という言葉には「自分と異なる考え方の人と議論するような面倒なことは避けたい」「平穏な関係が壊れるリスクを避けたい」という含意があります。

自分と意見の異なる相手を前にしたとき、今の人は自分の本音を隠そうとしがちです。本音を口にすることによって、相手を傷つけるかもしれない。もしかしたら自分は受け入れてもらえないかもしれない。そう警戒するのです。多くの人が「できるだけいい雰囲気をつくって平穏に過ごしていこう」と考えている。ただ、そればかりだと本当の自分の出しどころがなくなって、次第に息苦しくなってしまうという面もあります。

— 先生が発表された、人とのつながりについての調査研究を拝見して、人付き合いを「わずらわしいもの」と捉える人が増えているように感じました。

石田 生協総合研究所との合同研究[図表]ですね。「わずらわしくても、人との付き合いが密接な社会がよい」と「さびしくても、個人の自由を尊重してくれる社会がよい」という文章からどちらに考えが近いか選んでもらうと、後者が66%に上りました。また「目的や利点がなければ、わざわざ人とつきあう必要はない」と「目的や利点がなくても、人とのつきあいは不可欠だ」という文章に対しても、前者を選ぶ人が半数以上を占めました。

このときの調査対象は20代から50代までですが、若い世代ほどそうした傾向が強く出ています。今の若い世代は合理性を重要視します。その典型が、物事を「コスパ(コストパフォーマンス)」で考えることで、自分自身の評価についても、履歴書に書く内容を「スペック」と呼んだり、「(スキルを)アップデートしなくては」などと言ったりしています。

人との付き合いにおいても、「メリットがあれば付き合うし、メリットがなければ付き合わないでいい」と考えているわけですね。

   
出典:生協総合研究所「人々のつながりの実態把握に関するアンケート調査」(2024.03)

— そうした考え方に問題はないのでしょうか。

石田 そういった関係性は、長期的には自らを苦しめる可能性があります。こちらが「この人と付き合うべきか」をコストパフォーマンスで判断しているということは、相手もこちらを同じように判断しているということ。付き合うことで得られるパフォーマンスよりコストのほうが大きいと見なされれば、切られてしまう。いわば値踏みと損切りの関係です。
私は自分と異なる信念や価値を有する人を「異質な他者」と呼んでいます。そうした人との付き合いは、自分の視野を広げ、人間的な成長をもたらしてくれる可能性があります。それこそが人と付き合うメリットです。しかし、それは後になってわかる話で、付き合っている最中にはただ面倒なだけかもしれない。

一方で、コストはわかりやすい。一緒にいて疲れるとか、面倒だという人は、「コストが高い」ことになります。自分と意見の違う相手は付き合うのが面倒で、コストが高いと見なされ、すぐに切られてしまう。これでは本音を口にすることなどできません。

— そうした傾向は、企業でも見られるものでしょうか。

石田 企業内でも他者との摩擦や、深入りを避ける傾向はあると思います。最近の例でいえば、「退職代行」というサービスがありますね。顔を合わせて嫌な思いをするぐらいなら、お金を使ってでも人にやってもらう。自分が摩擦を起こさなくてもいいように代行してくれるサービスがたくさんあるのが、今の世の中です。

私のゼミの出身で企業の人事部に勤めている人たちは、一般の社員からは「社員同士の接し方がよくわからない」、管理職からは「こういうことを言っていいのだろうか」という質問がよく来るといいます。

管理職の場合、上司がうっかりしたことを言って部下を傷つけてしまうと、自分自身に責任が及んできます。人事に確認して「これについては人事でOKが出た」となれば、自分だけで発言の責任を負う必要がなくなる。だからこそ「こういう話題を出していいのか」と質問するわけです。

— 具体的にはどういった話題ですか。

石田 例えば「会社を休む理由はどこまで許されるか」という問いがあります。「実の親が亡くなって、葬儀があるので仕事を休む」、これは一般常識としてOKでしょう。一方で「ペットが亡くなったから」という理由で会社を休む人もいます。

これは従来の常識に照らせば判断の難しいところですが、そういう理由で休む人は現実にいるし、それに対して「これは認められるのか」ということを、上司が人事部に確認してくることがあるそうです。

上司が判断するということが難しい時代なのです。実際、訴えられる可能性もあります。だから、自分で判断せずに人事に相談する。「人それぞれ」と線を引いてコミュニケーションを避けるようになると、こうした事例も増えてくるでしょう。

 
 
 
 

「リスク恐怖症」の先にある社会

—「アルハラ(アルコール・ハラスメント)」という言葉ができたように、お酒の出る集まりや社内の懇親会についても、日本企業の伝統的な常識は若い世代の価値観と合わなくなっていますね。

石田 例えば職場で懇親会を開くとなると、普通は業務が終わった時間にやることになりますが、管理職が若手から「この懇親会は業務なのですか?」と聞かれ、「業務だ」と言えば「では残業手当を出してほしい」となるし、「業務ではない」と答えると、「業務でもないのに、なぜ私たちが行かなければいけないのか」という話になりかねない。このように、明言することがリスクになってしまう空気の中では、「リスクを避けよう」
と、みんなが萎縮してしまいます。

大学生の中にも、「懇親会はやりたいけど、自分で開催するのはリスクがあるからやりたくない」という人がいます。リスクというのは、みんなが嫌がるかもしれない、「今さら懇親会?」と言われて実現しないかもしれない、ということが1つ。もう1つは、「開催しても盛り上がらなかったり、うまくいかなかったりしたら、自分の責任になってしまうのではないか」ということです。

— 責任やリスクを嫌う風潮にはどんな問題がありますか。

石田 リスクを恐れて人と距離を取っていると、人間関係を育む力が身に付きません。

学生同士でも「小さな喧嘩をしながら仲を深めていく」ということがみな、とても苦手になっているように思います。「極力波風を立てずに何年間も過ごし、そしてあるとき、言いたいことをすべて言って、SNSをブロックして、二度と関わらない」という関係の断ち方が増えているんです。

会社であれば、「波風立たぬように勤務し、あるとき突然退職代行を使って辞職する」というようなもので、細かな衝突を繰り返しながら調整していくプロセスが苦手になっている。本来は成長の過程で、小さな意見の食い違いに折り合いをつけてまとめていくという経験が、人間関係を育む力につながります。経験を重ねることによって身に付く力です。そうした経験の不足は将来、仕事で多くの人と関わって進めなければならないような業務に携わったとき、影響が出てくるでしょう。

上下のラインのつながりが薄いネットワーク型組織では特に、個人の経験の格差が出やすいのです。コンサルタントなどはその典型でしょう。

また、リスクを嫌う風潮は国内に限った話ではありません。アメリカが発祥のキャンセルカルチャーと呼ばれる運動があります。特定の個人や団体の言動を社会的に好ましくないものとして弾劾し、社会的に排除しようとする集団的な行動です。こうしたキャンセルカルチャーの広がりにより、リスクや失敗を過度に恐れるムードが形成されています。

—「リスク恐怖症」への対処としては、どんな方法が考えられますか。

石田 大事なのは、「誰でも失敗することはある」という受け入れの風土をつくっていくことです。今は、「1つの失敗は致命的なもの」と、みなが思い込んでいます。

上の人間が失敗談を聞かせるのもいいですね。大人の失敗談を聞くと、若い人は「こういうことで失敗しても大丈夫なんだ」と安心します。今の職場は飲み会などが減り、上司の恥ずかしい話を聞くような機会がなくなっています。飲み会や懇親会にそういう効用があること自体、知らない人が多いでしょう。

 
 
 
 

学校と職場は、最後の砦

— 日常の人間関係で本音を出せなくなり、息苦しくなってしまったとき、SNSははけ口として機能するでしょうか。

石田 SNSは匿名化されますし、深いつながりがない分、自分を出しやすい面はあると思います。ただ、匿名といっても議論するのは面倒なので、なるべく意見が対立しない、こちらの意見を否定してこない人たちだけとつながろうとする。結果として、SNS上では同質の人による集団が構成されやすく、関心が偏る傾向があります。集団内部では異質なものが排除されているため、それに慣れてしまうと、戻ってこられなくなる人もいるでしょう。

— 先生が指摘された「異質な他者」にあたるような相手とは、SNSでつながることができるのでしょうか。

石田 難しいと思います。SNSは人とつながる上で非常に選別的な世界ですから。異質なものを排除し、自分にとって楽しいもの、面倒でないものだけとつながることが簡単にできるのがSNSです。

— 多様性を尊重するといいつつ、実際には同質の人間ばかりで集まり、異質な人間とわかり合う努力はしない、社会にそういう二面性が生まれているわけですね。どんな要因が関係しているとお考えですか。

石田 今の20歳ぐらいの学生は、小学生の頃からスマホを使っています。私は大学生になってやっと携帯電話を持った世代で、携帯電話のない時代を知っています。携帯電話登場以前には、人とつながるには特定の場所に行くしかありませんでした。当時は駅に掲示板があって、その前で友達と待ち合わせをしたりしたものです。お互い決まった場所に行かないと、会うことができなかったのです。

ところがスマホを持つようになると、人と会うにも「誰かいないかな?」とまずはスマホやSNSの友達リストを見ることになります。そして会ってくれそうな人から連絡していくのです。その過程で、人は自分にとって都合のいい人だけを選んでいきます。そこでは「異質な他者」はリスク要因でしかありません。

— スマートフォンが普及した結果、人間関係がどんどん選別的になっていったと。

石田 アニメの『ドラえもん』をイメージしてみてください。ドラえもんに出てくる子どもたちはみな、携帯を持っていません。なので、みんなと会うためには空き地に集まらなくてはいけない。そうしないと誰にも会えないからです。『ドラえもん』に出てくる空き地のようなリアルの「場」では、ほかの人がそこに来るのを阻止することができないので、来てしまったら交わらざるを得ないという面があります。

しかし、もし彼らがスマホを持っていたとしたら、どうでしょうか。空き地に行く前にスマホで連絡し合い、「今日は乱暴者が来るから、みんな別のところで集まろう」とジャイアンだけを弾いたり、「のび太みたいなノロマは外してSNSのグループをつくろう」と1人だけのけ者にしたり、といったことが簡単にできてしまいます。

現代は友達になるのも早いですが、切り捨てるのも簡単です。人間関係を管理しやすい世界なのです。

— 現代には、空き地のようなリアルの「場」は残っていないのでしょうか。

石田 今、「場」の力が生きているのは、若いうちは学校であり、成人してからは職場といえるでしょう。この2つが唯一、意見の違う人との付き合いを強制される環境で、いわば「人付き合いの最後の砦」です。

職場でいえば、会社という「場」によって会う人が決まります。そこでは自分に合う人だけを選ぶということができません。昨日喧嘩した人とも、嫌な上司とも交流せざるを得ないのです。

—『ドラえもん』の空き地と同じですね。そうした「場」を通じて人間関係を扱う力や社会性が育まれるわけですね。

石田 仕事をしているということは、すなわち社会性を育むということでもあります。とりわけ今の世の中は、仕事以外では人付き合いをしないでも済む社会になっていますから、仕事を通じて人間関係を築くのはとても大事なことです。 

ほんの30年前まで、日本では集団で行動することがスタンダードでした。1990年代ぐらいから、「職場で孤立する」という話が出てきました。かつての日本型組織は集団型で結束が強く、職場で孤立するというようなことはあまりいわれていなかったのです。しかしその後、日本経済が傾いてくると、「これまでどおりのやり方ではダメだ」となり、アメリカ型の組織が導入されました。部署を解体しフラットにしていくという形です。かつての日本の会社では上下の縦のラインがはっきりしていましたが、フラットな組織になると上下のつながりが曖昧になります。結果、職場の人間関係から弾かれてしまうという現象が起こるようになりました。

職場のみならず、今の世の中は、地域のつながりは弱くなり、結婚しない人も増えています。結婚しないと、親族関係は親と兄弟のみで、その関係も成長するにつれ、どんどん薄くなっていきます。自分が周囲とどう関わるか、人間関係を選び、編集することができる時代になっているのです。

— そうした状況の変化を引き起こしたものは、何だと思われますか。

石田 さきほども挙げたように、90年代に携帯電話が、2000年代にはスマホが急速に普及し、目の前にいない人といつでも連絡をとることが可能になりました。さらに2020年からのコロナ禍で、オンライン空間が一気に生活や仕事の中に入ってきました。今の状況は、コロナ禍によって時計の針が一気に進んだ結果といえるでしょう。

コロナ禍以前から、日本ではほぼすべての成人がスマホを持っていました。しかし、それでもやはり「対面が一番」という共通認識があった。ところがコロナ禍により、壮大な社会実験が行われ、対面ではなくオンラインで仕事や授業をやってみたら、それでも「案外いける」ということがわかり、文化として受け入れられるようになりました。結果として、「オンラインでいいことはオンラインで済ませ、対面でなければいけないことを対面でやればいい」という合理的な考え方が生まれ、さらには「わざわざ対面でやらなきゃいけないことって何なの?」という疑問も出るようになっています。

— コミュニケーションのオンライン化は、止めようのない流れなのでしょうか。

石田 もしすべての授業や仕事をオンライン化してしまうと、学校と会社という最後に残された「場」もなくなってしまいます。

直近の20年間に世界が経験したコミュニケーションのあり方の急激な変化は、人類史においても特異なものです。その変化を受けて、「人間の成長のためには、会いたくない人とも顔を合わせざるを得ない『場』が必要ではないのか」という考えも出てきています。

IT企業ではリモートワークが当たり前になっていますが、その中にあって2024年、Amazonが「世界の従業員に週5日の出社を義務化する」と通告し、大きな話題になりました。彼らもやはり「強制的に集まる『場』が必要だ」という考え方があって、出社を必須に戻したのかもしれません。

—「場」がなくなることは、人々にどのような影響を与えるとお考えですか。

石田 人付き合いを強制されないということは、逆に言うと、「自分から人と関わろうとしない限り、人付き合いができない」ということでもあります。

私はよく「エスカレーターと階段」という例え話をします。もし駅でエスカレーターと階段の両方があったら、健常な人でも「楽だから」という理由でエスカレーターを使う人が多いでしょう。けれども本来、健常な人は階段を使ったほうが健康にはいいのです。エスカレーターばかり使っていると、階段を上るための筋力が弱くなっていきます。そうなるとますますエスカレーターばかり使うようになって、足腰が弱り、やがて介護一歩手前のフレイル状態になってしまうかもしれません。

人付き合いも同じことです。1人で生きやすい社会にあって、あえて他人とのつながりを求めるというのは、面倒なことです。人とつながることで嫌なことが起きるかもしれません。「そんなことになるくらいなら、何もしないで家で動画でも見ていたほうがいい」と考える人も多いでしょう。しかし、そうやって人とつながることをやめてしまうと、人とつながるための筋力がどんどん落ちていく。そうなると、ますます人の中に入るのが面倒になってきます。

「何もしないで放っておくと、人とつながるための筋力が落ちてしまう」ということを、人々はもっときちんと意識しないといけないでしょうね。

   
現代の人間関係を語る上でのキーワード、「人それぞれ」をテーマにした著書『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマー新書)
 
 
 
 

「場」の力を復活させるために

— 若い世代が過度に合理性を重視しリスクを回避しているとすると、どうやって考え方を見直してもらえばいいでしょうか。

石田 若い人が自ら変わるのは難しいと思います。年上の人間が合理性を求めると、若い人はそれに合わせようとするからです。

私自身の場合は、あまり合理的に考えず、「まず足を運んでみること」を重視しています。そして、「なるようになる」という考え方も大事だと思っています。先読みばかりするのではなく、流れに任せるということです。教員が合理性やリスク管理、「こうしなければ」という考えにとらわれていると、それは必ず学生に伝わってしまいます。反対に「なるようになるさ」と思っていれば、みんなもそう思ってくれるものです。

また、「場」の力を再生しなければならないとも考えています。携帯電話登場以前のように、完全に復活はできないとしても、少しずつでも「場」に慣れていくことが大切です。

私の場合はもともと対面の授業が好きなので、コロナ禍では大学の中でもいち早く、2021年頃から対面授業を再開しています。また、一時期は懇親会がなくなりましたが、私のゼミでは意識して復活させました。

— 懇親会を開く意味をどう考えておられますか。

石田 懇親会も「場」の1つです。職場で懇親会を開いたとき、「なんでわざわざ、仕事の関係者と集まらなければいけないんだ?」という人もいれば、「人と会うのが苦手だから億劫」という人もいるでしょう。それでも、そうした「場」を設けること自体に意味があると、私自身は考えています。

日本には「私は自分では企画しないけど、声を掛けられたら行きます」という人がたくさんいます。懇親会やそれに類するものがなくなると、そういう人が一番困るのではないでしょうか。自分から声を掛けるか、あきらめて1人でいるしかなくなりますから。

ただ「なんでそんなことをする必要があるのか?」と問われると、反論が難しいですね。会社で上司が「会議はやっぱり対面でやりたい」と言い出したとき、部下から「なぜですか? オンラインのほうが効率はいいし、電車賃もかからないし、私はオンラインでも対面と変わらず発言できます」と言われると、反論しようがないのと同じです。

— 先生は子育て世帯を支援するNPOと連携して、子育てと孤独・孤立についての研究もされていますね。「子育て相談を、人間ではなくChatGPTにしている」という人もいるそうです。そういう時代に、人と人が連携することにはどんな意義があるでしょうか。

石田 効率的に答えを得ることは大事です。しかし、コミュニケーションにおいてもっと大事なのは「共感を得ること」。人は共感が得られないと孤立していると感じ、自信も持てなくなります。

AIは、効率的に答えを出してくれるかもしれませんが、まだ共感が苦手です。人間であれば、例えば職場で「営業先でこんな人に出会って大変だったよ」と言えば、同僚が「大変だったね。自分も同じ目に遭ったことがあるよ」というように、経験を共有することで共感を得ることができます。しかし、AIには「体」がないので、人間と同じ体験をすることはできません。私は50歳を過ぎて体の変化が進んできましたが、ChatGPTにそれを伝えると「あー、腰とか痛くなるよね」とは言ってくれます。でも「いやいや、腰なんかないでしょう」という話で(笑)。

— 信頼関係を築く上で共感というのは大切ですね。

石田 人間同士の会話でも、オンラインの会話は雑談がしづらいという問題があります。一緒に同じ場所で過ごす時間がないと、共感や一体感は得にくいのです。一見、無駄のように思われるものが実は大事なんです。

人間は必ずしも効率的なアドバイスを求めているわけではありません。会話にしても、雑談や遊びがあるからこそいいのであって、すぐに「エビデンスは?」などと迫られると、会話は直線的にしか進みません。

— 人同士のコミュニケーションではアイコンタクトといった身体性も大事ですね。

石田 非常に大事です。パソコンやスマホは、基本的に視覚と聴覚にしか働きかけません。しかし人が最終的に信頼を託すのは触覚で、「手で触れられる」ことが大事なんです。これは、身体性がなければ実現できません。

組織には一体感も重要です。チームに帰属意識を持ち、一体感を持って進むときのうれしさは、オンラインでは得にくい感覚でしょう。帰属意識を得られるのは、やはりリアルな体験と共感があってこそです。例えば、早稲田大学ですべての授業がオンラインで受けられるようになったとします。でもそこで「早稲田大学の学生としてのアイデンティティをどうやって得るか」と考えると、一番早いのは大学のキャンパスに足を運ぶことでしょう。実際にほかの学生とともにキャンパスに身を置いて過ごすことによって、五感で「自分はこの大学の学生になったんだ」という実感が得られるんです。将来、ゴーグルをはめてVR上で集まることが可能になるかもしれませんが、それでリアルと同じ帰属意識が得られるという保証はありません。

— 石田先生の研究テーマの1つに、孤立対策としての「居場所づくり」があります。

石田 一例を挙げると、「大学のゼミが卒業生に対する居場所になることができるのではないか」という仮説を立て、アプローチを行っています。1つはメーリングリストをつくって、希望者のみそこに名前を載せ、不定期にゼミ通信や懇親会の連絡を送ること。あえてSNSではなくメールで行っているのは、SNSの場合は誰が読み、誰が返事をしたかがわかってしまうからです。メールの場合は既読確認をせず、送りっぱなしで、誰が読んだかなどがわからないため、それだけゆるやかなつながりができます。それまで何の返信もなかったのに、ある日突然「登録したい」と言ってきたり、「実はずっと見ていたんです」と言われたりもします。

— ゆとりを持たせることが大事なんですね。

石田 「場」としての機能を持たせる一方で、ある程度の選択肢を与えることも大切です。もう1つ、年に一度、卒業生向けの授業を行っています。飲み会は苦手な人も、授業を受ける分には問題ないでしょう。この授業は毎回「午後2時から4時」と決めています。夜にすると子育て世帯が参加しづらくなりますし、これぐらいの時間帯だと、同期でお昼を一緒に食べてから参加するという人たちもいれば、授業の後に連れ立って飲みに行く人たちもいます。

開催する時期は毎年固定し、ドタキャンや直前参加も認めています。「今年は忙しくて行けなかったけど、来年は行こう」という人もいるでしょう。「自分は参加していないけれど、毎年やっている」と思えることが、「自分には帰る場所がある」という安心感につながるのではと思っています。

   
卒業生向けに開講している特別授業。多くの元ゼミ生たちが集う「場」となっている

— 企業の場合、どのような居場所をつくれるでしょうか。

石田 企業の強みは、理屈抜きで職場に来させることができるという点です。そこはクリアしているので、あとは工夫次第です。ポイントとしては、参加の仕方をゆるやかにすること。

懇親会をしたいという需要は一定程度あると思いますが、強制にはしないで、会議の後にその人たちの雰囲気に応じて懇親会を開いてみる、といった工夫が必要になります。極論を言えば、「1人も来なくても、まあいいか」と考えるくらいのほうが、気楽に設定できます。こちらの必死感が伝わってしまうと、相手にとって重荷になってしまいますから。「今年は誰も来なかったけど、また来年ね」というぐらいでちょうどいいのです。
 それぞれの会社の状況に合わせてやっていくことが大切で、試行錯誤しながら最適な形を探していくといいでしょう。

早稲田大学 文化構想学部 現代人間論系 教員紹介

   

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