文章の「形」を学び、たしかな読解力を育む

阿部 公彦

東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授

2026年3月26日 11:00 Vol.95
   
阿部 公彦
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授
Masahiko Abe
1966年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(英語英米文学専攻)修士課程を経て、ケンブリッジ大学大学院修了、博士号取得。専門は英米・英語圏文学、英米詩研究。1998年小説「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞、2013年『文学を〈凝視〉する』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。翻訳に『フランク・オコナー短篇集』(岩波文庫)、共著に『ことばの危機大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書)、著書に『名作をいじる「らくがき式」で読む最初の1ページ』(立東舎)、『事務に踊る人々』(講談社)、『小説的思考のススメ』(東京大学出版会)、『英詩のわかり方』(研究社)、『文章は「形」から読むことばの魔術と出会うために』(集英社新書)など多数。

デジタルネットワークの普及に伴い、私たちは日々、膨大な文字情報に接している。しかし、簡潔なコミュニケーションが増える一方で、理解力や発信力は必ずしも高まっているとはいい難い。日本人の読解力低下が叫ばれ、AIがことばを操る時代において、私たちはことばとどう向き合い、自分の世界を豊かにしていけばよいのだろう。古今東西の文学から広告文まで、さまざまな形式の文章分析を通して、「ことば」の深層を追究する研究者にお話を伺った。
text: Masashi Kubota photo: Masahiro Heguri

「背伸び」が連れていってくれた文学の入り口

— 阿部先生は、詩を含めた英米・英語圏文学を専門とされています。英米文学の道に進まれたきっかけとなった読書体験を教えてください。

阿部 私が本格的に小説というものを読むようになったのは中学校に入ってからでした。最初はフレデリック・フォーサイス(イギリスの作家。スパイ小説の第一人者)の『戦争の犬たち』のような冒険小説やサスペンス、五木寛之の『青春の門』や井上ひさしといった日本の現代文学など、ジャンルを問わず手に取りやすいものを読みましたね。高校に進む頃になると古典や、萩原朔太郎やボードレールなどの詩も読むようになり、その頃大きな影響を受けたのが、高校の英語の先生です。早くに亡くなられてしまったのですが、高校の第1期の卒業生で、教師として戻ってこられた方でした。良い意味でマニアックなところのある先生で、ご本人も英米文学の研究を志していたそうです。

その先生が、放課後にシェイクスピアの原典を読む読書会を開いてくれたんです。テキストは『マクベス』で、先生のファンの生徒たちが4、5人参加していました。先生の解説、そしてうんちくがすごくて、1、2時間かかっても1ページしか進まないのです。到底すべてを理解できていたわけではありませんが、「文学の薫りを生で嗅いだ」という新鮮な感覚がありました。私はそこで英米文学のリズムや面白さ、ことばの力を知ったのです。このシェイクスピアの読書会が、私を英米文学研究の入り口まで連れていってくれました。

   
ケンブリッジ大学での学位授与式の様子(右は校長〈マスター〉)。博士論文テーマのウォレス・スティーヴンズは、20世紀アメリカを代表するモダニズム詩人。阿部先生による研究書に『モダンの近似値スティーヴンズ・大江・アヴァンギャルド』(松柏社)がある
   
ケンブリッジ名物パンティング(パント漕ぎ)をする阿部夫妻。パンティングはパントという棒で川底を押して進む形式の川くだり。ケンブリッジ(Cambridge)の語源は、ケム川(River Cam)に架かる橋(Bridge)といわれる(諸説あり)

— 高校生でシェイクスピアの原典を読むことは非常に高度な体験ですね。

阿部 ええ。たとえ理解が及ばなくても、原典と相対して打ちのめされたような気持ちになる経験はとても大切で、自分が背伸びしたり、あるいは人に背伸びをさせたりすることは悪いことではないんです。わからなくても、本物に触れることでしか得られない感覚がありますから。

その後、修士課程修了後にケンブリッジ大学に留学されましたが、イギリスでの日々はいかがでしたか。

阿部 ケンブリッジでは博士論文に取り組みました。私が研究対象としたのはアメリカ合衆国のモダニズム詩人ウォレス・スティーヴンズ。博士論文のテーマは「Wallace Stevens and the Aesthetic of Boredom(ウォレス・スティーヴンズと退屈の美学)」でした。日本の大学ではまず修士を取ってから博士課程に進むものですが、私が留学したのは学部から直接、博士課程へ進むコースでした。学部生がそのまま進学し、博士論文を書くために自由に勉強するのです。

当時のケンブリッジの英文科の生徒はネイティブばかりで、私のような第2言語の人間はその点で差はありましたが、英文学の領域は研究の方法や考え方が共有されていて、アカデミックな面ではイギリスも日本も大きな差はありませんでした。学部を出てすぐに博士課程に入った現地の学生は、学部課程が3年しかないのでまだ21歳ぐらいなのに対し、こちらは既に修士を取っていて歳も25、26ですから、文学研究の経験という意味では私もそれなりにあったと思います。

大学院の授業には夜8時からというものもあって、少し暗い部屋で円卓を囲んで、ワインを飲みながら、という形で行われていました。ちょっと大人の雰囲気で、学生たちはみな緊張していましたね。私は「1日1回は何か発言しよう」と決めて参加していました。英米といっても、アメリカの学生たちはわあわあと手をあげて発言しますが、イギリスの学生はもう少し抑制的で、授業で変な発言をしてしまうと、微妙な空気が漂うこともあります。ほかにアメリカからの留学生が多い授業もあったのですが、アメリカ人の学生はすぐ発言したがるので、イギリス人の学生は「文化が違うね」と言ったりしていました(笑)。この大学では授業の他にも自主的な集まりがいろいろあって、アンテナを張っているとさまざまな出会いがあって面白かったです。




「読めていない」の真相と読解力の本質

— 近年、日本人の読書量が減り、読解力が落ちているといわれています。阿部先生は共著『ことばの危機大学入試改革・教育政策を問う』(2020年、集英社新書)にて、「『読解力』とは何か—『読めていない』の真相をさぐる」というテーマで第1章を担当されました。

阿部 あの本のきっかけは前年に行われたシンポジウムでした。東京大学では年に1回、ホームカミングデイという卒業生を招いて行う催しがあるのですが、文学部では毎年この日にシンポジウムを行う慣わしになっていて、2019年のテーマが「ことばの危機—大学入試改革・教育政策を問う—」だったのです。2021年度からそれまでの大学入試センター試験に代わって大学入学共通テストが導入されることが決まっており、2022年度からは教育課程の改変も予定されていたタイミングですね。改変の内容に危機感を抱いた国文学者の安藤宏先生が音頭を取って、当時の人文社会系研究科の教授たちが集まり、討議を行いました。そこには「文章を読み解く『人文知』の根幹、あるいは『読解』という概念が大きな危機を迎えている」という共通認識があったのです。

安藤先生は太宰治の研究で知られる方で、ほかにスラブ文学者の沼野充義先生、哲学者の納富信留(のうとみ のぶる)先生、古代中国語文法を専門とする大西克也先生、そして私です。このシンポジウムの反響が大変大きく、書籍化が決定しました。わりにすぐに重版もされましたから、いろいろな先生がいろいろな角度から論じていたという点が新鮮だったのではないでしょうか。

— 先生は同書の中で、「読解力が足りないというのは本人だけでなく、社会全体での仕組みの問題」と指摘されています。

阿部 文章には書き手と読み手がいます。「読み手の側に十分な読解力さえあれば、すべての文章を理解できる」というわけではありません。骨のある難しい文章と出会ったとき、意味が理解できないと「自分が悪い」と思ってしまいがちです。特に外国語の文章の場合は「構文がわからない」とか「単語を知らない」といった理由で「自分のせいだ」となりやすい。それはある程度は自然なことであり、「もっと勉強してわかるようになっていこう」という努力にもつながります。

ただ「読めない」という事象の背後には、読解力以外にもいろいろな要因があるのです。単に文章が良くなくて読みづらいということもあるし、その文章が書かれた背景を知らないからわからないということもあるでしょう。さまざまある要因のどれのせいで文章の意味がわからないのか、原因を見通すことが求められます。「これはこの文章が書かれた世界を知らないからわからないのだ」といったように、原因を見渡せることが大切なのです。

   
大学入試改革・学習指導要領改訂における国語改革に対して、その問題点に鋭く切り込み、話題を呼んだ新書『ことばの危機大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書)。文学的知性や想像力の重要性を改めて認識することができる一冊

— 義務教育過程ではどのような読解力を身に付けるべきでしょうか。また大人になってからその力をどうアップデートしていけばよいでしょうか。

阿部 読解力の最終的な目標は、「文章の周りにある磁場のようなものをそのまま受け取れるようになること」ではないでしょうか。一つの文章に対しても「これはいい文章」「これは間違っている」といった単純な線引きで分類できるものではありません。「この文章はわざとわかりにくく書いてあるな」とか「これは偏った考えの人が書いているな。でもなぜか迫力があって、すごく魅力的な面がある」といった、いろいろな「わかり方」があるのです。

義務教育ではまず漢字を読めるようになるとか単語の意味がわかるといったことから入らなければいけないのですが、そうした基礎知識の次に必要になるのがコンテクスト(文脈、背景)の理解です。文章というものはすべて「断片」です。国語の試験問題はもとの文章から切り出してきた断片ですし、一冊の小説も実はその外に広い世界があります。SNSでは1行だけ誰かのことばを引用して「間違っている」などと叩いています。いちいち全部の文章を引用するわけにはいかないので仕方ないことではありますが、断片の外側に何があるかに気付くこと、コンテクストを感じ取ることが大切です。

— 読解力とは、コンテクストを感じ取る力でもあるということですね。

阿部 文字の背後にあるコンテクストをつかむ力を付けることで、文章の種類を問わず、書かれた内容を理解する力は上がっていきます。文学作品はそうしたコンテクストを感じ取る力を鍛えるには良い対象です。大学入試の英語のテストでは、論説文だけではなく物語性のある文章が出題されることが多いです。これは「物語性のある文章のほうが、理解度に差が付くから」という理由もあります。特に英文和訳などで顕著なのですが、フィクションやエッセイではコンテクストが読み取れないと、正しく文意が理解できないのです。文中に用いられた英単語などを辞書どおりに訳すと、とんちんかんな訳になってしまいがちで、点数に差が付きやすい。逆にいえばこうした文章が、コンテクストを読み取る力を鍛えるのに有効だということです。

— 「ことばの危機」シンポジウムが開催された当時、「国語の授業で小説を教える必要はない」という声もありましたが、最近は国語の教科書に文学を掲載する流れが戻ってきているとも聞きます。

阿部 そうですね。2017年に公表された大学入学共通テストのモデル問題例の中に、「駐車場の契約書」を取り上げた設問がありました。「駐車料金の値上げ要求に対して、駐車場使用契約書を読んで反論せよ」という趣旨です。この問題例は新学習指導要領とも連動しており、「今後の国語の授業ではこの契約書のような文章を実用的、論理的な現代文として取り上げるように」と受け取れるものだったため、議論を招きました。

国語の授業で契約書を読んではいけないとはいいませんが、契約書を題材にして生徒の関心を引き付けるのは、難しいでしょう。文学作品なら「行間を読もう」とか「キャラクターの動機を考えよう」といった課題設定で生徒の興味を引き出すことができますが、契約書を題材にして授業をしても、何も面白くないですから。教える側がよほどクリエイティブな人だったら、「この契約書を作成した人物の目論見を推定せよ」といった形で生徒の関心を引き出せるかもしれませんが、普通は教える技術がそこまで追いつかないと思います。

— 「契約書を学ばせろ」と言った人は、そこまで深く考えていなかったのかもしれませんね。

阿部 契約書の内容をきちんと理解したり、契約書を書けるようになったりすることは大事だと私も思います。でも駐車場の契約書を国語の授業で読ませることで、その契約書が書けるようになるかというと、そうはならない。逆に文学作品を通じてコンテクストを読み取る力を鍛えることは、契約書の内容だけでなく、背景や作成者の意図を理解するための読解力につながるはずです。




文章の「形」を学び、広告の「ことば」を問う

— 先生はその後、2024年に『文章は「形」から読むことばの魔術と出会うために』(集英社新書)を上梓されました。

阿部 『ことばの危機』の担当だった集英社の編集者が、「『ことばの形』というテーマで本を出しませんか」と勧めてくれたのです。集英社の『kotoba(コトバ)』という季刊誌で連載し、それをまとめて書籍化するという流れで本にしました。この本では文学作品の文章について分析する際のメソッドを流用して、料理本から契約書までさまざまな種類の文章を取り上げました。そして、それぞれに特有の形式が存在することを明らかにし、そうした形式を採る意味を探るという構成になっています。

— 本の中で「練習問題」として出題されていた「らくがき式」に感銘を受けました。文章に感想を書き込み、特有の「形」を見出していくメソッドですね。

阿部 「らくがき式」という文章の分析手法は、2017年に刊行した『名作をいじる「らくがき式」で読む最初の1ページ』(立東舎)という本の中で紹介しました。私のSNSで、名作とされる小説の冒頭にらくがきを施した画像をアップしたところ、それを見た立東舎の人が「ぜひ本にしましょう」と連絡をくれたのが始まりです。

初心者向きの手法なので、特に小学生から中学生にお勧めしているのですが、それなりに反響があって、図書館で「らくがき式」についてのワークショップをしたこともあります。私は普段から自分でもいろいろ書き込みをするほうなんです。だいたいは文の横に線を引いたり、自分が賛成できない箇所にバツを付けたりするぐらいですが、そんな中で「ほかの人とこうしたらくがきを共有できれば、自分以外の人がどういうふうに感じているかがわかって、面白いかもしれない」と思い至りました。

ことばを扱う力を付けるには、書かれている文章を字義どおりに受け入れるだけではなく、感じた疑問や反論を言語化し、主体的に読む経験を重ねることが大切です。活字化された文章を絶対視するのではなく、「自分もこの文章を書き得たかもしれない」というスタンスでコミットしていくことにより、作品への共感もより深まりますし、批評的視点も獲得しやすくなるのです。

既にあることばの配列を、自分なりに動かしてみて「ちょっと直せば読みやすくなる」と発見すれば、本に書かれた文章が必ずしも絶対的なものでないことが肌で感じられるでしょうし、反対にいろいろいじった末に、「この文章はどうやってもこの形でしかあり得ない」と納得することもあります。「これは自分では書けない」と畏怖を感じることもあれば、逆に「これは駄文だな」という印象を持つこともあるでしょう。

読んで難解に感じる文章にも、含まれている意味が深いために読み解くのが難しいこともあれば、単に文章が下手で読みづらいだけという場合もあります。書き手として考えても、「らくがき式」の練習を積むことにより、読み手の解釈が書く側の想定と必ずしも一致しないことが体感でき、多様な解釈がある前提で文章が書けるようになっていくのです。

   
名作小説の冒頭に、感想やツッコミを書き込む「らくがき式」を提案する『名作をいじる「らくがき式」で読む最初の1ページ』(立東舎)。文豪の文章であっても臆することなく「いじる」ことで、受動的な読書を脱し、新たな魅力と出会うことができる

— 「らくがき式」に限らず、文章の「形」を意識することは、文章を書く訓練にもなりそうですね。

阿部 そうですね。今の義務教育では、新聞の社説のような論説文を読み解く力が重視されています。そうした文章を書くためには、「箇条書き」や「段階的な説明」といった「論理的な形式」を知っておく必要があります。読むときにこの「形」を意識することは、書く練習としても非常に有効です。文章には「序論・本論・結論」といった決まった型がありますが、これに当てはめるだけで、内容はぐっと伝わりやすくなります。

これは部屋の片付けと同じです。中身そのものがそれほど論理的でなくても、整理整頓された「形」で見せられると、きれいでわかりやすく見えるのです。よく自己啓発書で「ポイントは3つあります」と列挙する手法がありますよね。最近ではAIもよく使う形式ですが、確かにああした「形」で示されると、読み手はそれだけで「なるほど、わかった」という気になりやすい。こうした「見せ方の整理術」を知り、自分でも使えるようになることは文章力を高める助けになるでしょう。

   
本当の「読解力」を養うには、ことばの「形」を見極める力が欠かせない。契約書、レシピ、広告など幅広い実例を用いて、文章の「形」を読む方法を指南する『文章は「形」から読むことばの魔術と出会うために』(集英社新書)

— ご著書の中では広告に用いられることばも取り上げておられます。広告の場合、価格や機能を訴える合理的な要素と、人の心に訴える情緒的な要素の両面がありますが、先生はどのようにご覧になっていますか。

阿部 広告文は不特定多数に向けたもので、書き手と読み手の関係性が不安定なことが一つの特徴です。読み手は広告を読んでもいいし、読まなくてもいい。その中で日本の、とりわけバブル期の広告では、本来の意図をあえて隠し、何を買ってほしいのか、どの会社の広告なのか一目ではわからないような、間接的なスタイルの広告を打ち出していました。

読む必要のない人たちに広告を訴求するために、ある種の不安定さをむしろ積極的に活用していたのです。私たちの世代の場合、若い頃に『広告批評』や『本の雑誌』などを時代の先端を行くおしゃれな雑誌として読んでいて、広告文を書くコピーライターといえば華やかで憧れの職業というイメージが強くあります。今は表現が当時より直接的になっている感じはありますが、日本の広告は世界に誇れる文化ではないでしょうか。

— SNSではことばが省略され、当事者間だけで通じる合言葉のようなやりとりが増えている印象があります。広告にもそういった影響があるでしょうか。

阿部 ことばは突き詰めていくと暗号的になっていく面があると思います。例えばSNSで「了解」を「り」とだけ言ったりしますね。「いかに字数を少なく省略するか」という流れがあるように思いますが、ことばがそうやって記号化する方向に向かっていくと、新しい表現の世界は開けてこないのではないかと感じます。

ことばは少し不安定なほうがいいのです。そのほうが、これまで見逃していたものを感じられるようにしたり、ことばが与えられていなかった事象を言語化できたりするのではないかと思います。その意味で日本の広告には、既存のことばで捉えられていなかった隙間を捉えられるような良い意味での不安定さがあって、それが創造的に働くことで面白い表現が生まれてきたのではないでしょうか。

ただ広告が創造性を発揮するためには、広告を出す側にも遊び心がないといけないでしょう。バブルの頃に比べると、そうした余裕のある企業は減ってきたのかなという気もします。昨今はコンプライアンスが厳しくなり、「曖昧な表現をすると誤解されて批判されるかもしれない」といった心配から、解釈の余地のある表現が少なくなってしまっているのかもしれません。

最近のテレビCMなどは、ダークな雰囲気は極力避け、悪いことなどしそうもない、にこやかなキャラクターだけで構成されている印象があります。企業のイメージに関わる問題なので仕方ないのかもしれませんが、ある程度「毒」がないと、新しい表現は出てこないでしょう。かつての広告にはそういう力、波乱を引き起こすような要素がありました。

「らくがき式」にしても、著者に断りもなく勝手に書き込みをするわけですから、ある意味では暴力的です。ただ既にあるものをひっくり返す力がないと、新しいものは生まれてきませんから。




AI時代における人文科学の意義とは

— 現代社会ではSNSをはじめ、対面に限らない他者とのコミュニケーションの選択肢が増え、各場面ごとに適切なことばの使い方が模索されている印象があります。SNSは私たちのことばの使い方にどのような影響を及ぼしているとお考えですか。

阿部 かつて雑誌文化が盛り上がっていた時代には、どの雑誌を読んでいるかでその人の社会とのつながり方が見えるということがありました。今はどのSNSを使うかで、その人の生活圏、文化圏が変わってくる時代です。プラットフォームとしてのSNSは種類もさまざまですし、今も新しいものが出てきています。

若い世代では、メールを用いず、親しい友達同士ではLINE、知人向けにはInstagram、親の前ではまた別のメディアを使い、自分を偽装するといった使い方をしているといわれますね。どのプラットフォームでどのようなことばを使うか、意識してことばを選択することが普通になっています。

結果としてことばとのつきあい方が「メタ化」するというか、ことばとちょっと距離を置いて使っている印象を受けます。学生と接していると普段の会話でも、「彼ってああいうキャラだよね」というような、冷めた言い方をすぐしますね。人の発言もそのまま真に受けるのではなくて、相手がそのときどういうポジションにあるかというコンテクストを見て、「あの場所であの立場だからああいう発言をするのだろう」と分析する。相手の発言を、意図してつくっているキャラクターに合わせた発言であると受け取り、自分も同様にキャラ付けした発言をする場合があるのです。

肯定的に見れば大人な距離の取り方をしているわけですが、人間そのものに対する距離感も感じるし、やや冷笑的な印象もあって、「本当のあなたはどこにいるの?」と尋ねたくなってしまう。「そんなに距離を取って、どうやってことばの栄養を受け取るのか。文章を読んだ快楽、書く快楽はどこに行ったのか」と気になってしまいます。

— ことばに対して主体的ではなくメタ的な見方をすることで、読書の没入感や書き手への共感が薄れてしまうのでしょうか。

阿部 「ことばと距離を置きながら、どうことばの栄養を取り入れるか」が若い人にとって問題となるような気がします。「文は人なり」とか「文章の味わい」というと古めかしい感じがするかもしれませんが、ものを食べたときと同じで、ことばを読むことは栄養になるし、ときによりおいしかったりまずかったりする。その感覚は決して廃れないし、そこを捉えられないと文章を読む意味がないとすら感じます。

SNSの浸透によって、これまで以上にことばと接する機会が増えたのは間違いありません。自分ではメタレベルに立って距離を置いているつもりでも、知らず知らずのうちにことばの魔力にさらされて、いつの間にかコントロールされたり、トレンドに流されてしまったりする可能性もあると思います。文章を読むという行為がすべてバーチャルなものだと捉えると、何を読んでも実感が伴わず、ことばから栄養を受け取れないし、その一方で簡単に流されてしまうことにもなると思うのです。

— 阿部先生はご著書で「文系の学問においては、不易の人間の課題、結論がわからない問いに向き合うことが大事なのだ」と指摘されています。AI時代の今、結論や答えが明快でない文学作品は、個人や社会にとって、改めてどのような位置付けにあるとお考えですか。

阿部 文学や映画に限らず物語というものは、基本的に結論は出ません。葛藤が葛藤のまま残されるからこそ物語が成立すると我々は感じるのです。もちろんドラマの「水戸黄門」のように結末が決まっているエンタテインメント作品もありますが、そうでないものに自分をさらすことで、答えのない問いや葛藤への耐性が付くということが価値の一つとしてあるかと思います。また自然言語特有のふるまいを直感的に理解して対処することは、社会を生きる上で大事なことで、その能力を鍛えることには力を注ぐべきでしょう。

理系の学問の場合、「特定の形式で物事を考える」ことが最初のステップになります。「こういう枠組みで物事を整理していきましょう」というところから始まるわけです。形式的な情報の扱いがうまい人と、自然言語の情報の扱いがうまい人がいて、そこから「理系」「文系」という区分が出てきたのでしょうね。

生成AIが自然言語の処理がうまくできるのはなぜなのか、という興味はあります。非常にナチュラルなことばを生み出していますが、生成AIをつくった人たちも、なぜAIが自然言語の処理をうまくできるのかは完全にはわかっていないようです。統計的な処理でうまくいっているようなのですが、そのメカニズムがよくわかっていないのですね。

— AIが得意なことと、人間が身に付けるべきことについて、どう線引きをすればよいでしょうか。

阿部 「これはAIが苦手な分野で、人間にしかできない」と判断したとしても、あっという間にAIの能力が向上して凌駕される可能性もあるので、AIと張り合っても意味がないのかなという気がします。

ただしAIのプログラミングには、まさに「読解力」が不可欠です。そのため、既にかなりの数の文系の人がSEとしてAIのプログラミングに携わっているとも聞きます。近年、「文理融合」ということがいわれますが、「文系だから形式的な思考の訓練をやる必要がない」ということにはなりません。

人により得意不得意はあるでしょうが、自然言語の領域でも形式を利用して考える技術を身に付け、ことばの運用能力を洗練させていくことは、文系理系にかかわらず大事なことだと私は思っています。

— 我々はことばに関して今後、どういった力を身に付けていくべきだとお考えでしょうか。

阿部 これまでの語学教育では、どうしても個別言語の習得に興味が向きがちでした。今後はAIの進化によって、そうした傾向は頭打ちになるのではないかと感じています。日本企業は永らく「実用英語、実用英語」と騒いでいましたが、そのような実用志向が落ち着いたとき、自然言語を扱う本質的な力が再評価されるでしょう。今後は英語とか日本語とか中国語といった言語の枠を超えて、ことばのエッセンスをどう捉え使いこなすか、そして社会の動きに対応できるかが重要になると感じています。

付け加えるなら、メタ言語というか、今まで人文科学として一括りにされてきたよくわからない領域をどう教えていくか、我々も教育者として真剣に考えなければいけないでしょう。

試験科目の背後にある、我々も十分捉えきれていないもやもやしたもの。そこに対峙していく力を養うことが教育の役割です。

   

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