隠れたニーズを可視化し、市場を動かす「社会記号」

松井 剛

一橋大学大学院経営管理研究科教授

2026年3月26日 11:00 Vol.95
   
松井 剛
一橋大学大学院経営管理研究科教授
Takeshi Matsui
1972年北海道生まれ。2000年一橋大学商学研究科博士後期課程修了。博士(商学)。2007~2009年プリンストン大学社会学部客員フェロー。2018年より現職。文化社会学の観点から消費文化現象に関する各種研究を行う。2022~2023年ニューヨーク大学社会学部客員研究員、ハーバード燕京研究所客員研究員としてアメリカにおける日本食の歴史的発展についての現地調査を実施。著書に『ことばとマーケティング』(碩学舎)、『アメリカに日本のマンガを輸出する』(有斐閣)、共著に『欲望する「ことば」「社会記号」とマーケティング』(集英社)など多数。

情報過多の現代、人々の曖昧な感情や欲望を捉えた「ことば」は、SNSなどを通じて瞬く間に拡散し、市場や社会を動かす力を持つようになる。世の中の新たな事象を言い表し、潜在的ニーズを可視化するこれらメディア発の「ことば」は、なぜ人々の心を掴み、行動を変容させるのか。創られた「ことば」が市場にもたらすダイナミズムと、その裏にある人間心理について解説していただく。
text: Masashi Kubota photo: Masahiro Heguri

ことばと市場の相互作用

— 松井先生は「ことば」に着目した消費者行動について長年研究を続けられています。こうした研究を始められたきっかけを教えてください。

松井 私は2000年に博士号を取得したのですが、博士論文がいささか概念的な研究だったので、「より具体的な市場現象を分析したい」と考えるようになりました。そうして研究テーマを探していた時期に、注目したことばの一つに「雑貨」があります。

— 「雑貨」のどういった点に注目されたのでしょうか。

松井 人々の間では「雑貨店に行った」とか「私は雑貨が好き」といった会話が普通に成り立っています。しかし「『雑貨』とは何なのか」という定義については、誰もはっきりしたことが言えません。もともと「雑貨」は、ほうきやざる、たらいなどの荒物や金物に使われることばでした。しかし今ではその範囲が大きく広がっています。1974年に「文化屋雑貨店」を開いた長谷川義太郎さんは、「自分が雑貨と言えば雑貨なのだ」と言っておられました。

だいぶ後の2019年に、海外の学会で雑貨をテーマとした30分の映像作品を発表したことがあります。そのとき雑貨を英語で何と呼ぶか改めて考えたのですが、結局ぴったり対応する語句がなく、「uncategorized goods」、つまり「分類できないモノ」と英訳しました。ことばの定義もないのにそれを扱う専門店(雑貨店)が存在し、人々の日常会話に使われていることが不思議で、その理由を探りたいと思ったのです。

教員になりたての頃は、「雑貨」自体を直接的にテーマに据えることはありませんでしたが、そこからさらに模索し、最終的に研究テーマに据えたのは「ことばとマーケティングの関係」でした。

1990年代終わりぐらいから2000年代にかけてブームとなった、「癒し」ということばがあります。マーケティングにおける流行語は通常、特定の業界や製品カテゴリーのみで使用されるものですが、「癒し」に関しては業界横断的な広がりが生まれました。スパ施設が「癒し」を売りにしたと思えば、大手ハウスメーカーも「癒し」を前面に出して暖炉付きの家を売り出し、旅行企画でも「癒しの◯◯」といったフレーズが氾濫、「癒し系」として売り出すタレントまで登場しました。ことばが業種の垣根を越えて模倣され、それまでなかったマーケットを創り始めたのです。それを見て「面白い現象だな」「社会的影響が大きいわりに、まだあまり研究されていないな」と関心を持ち、研究テーマに選びました。

「癒し」の研究はどのように進められたのでしょうか。

松井 大宅壮一文庫のデータベースから「癒し」ということばが使われている雑誌記事のタイトルを抽出し、テキストマイニングソフトを使って分析しました。まず動詞「癒す」の五段活用でいう未然形の「癒さ……」(「癒される」などと続く形)がどれぐらい使われたかを調べてみると、2000年代初頭に大きく使用数が増加したことがわかりました。「癒される」「癒されたい」ということばが広く使われるようになっていたのです。癒す対象も、以前は「傷」や「病気」だったものが、「ペットに癒されたい」というように、「他者」、そして「自分」へと拡大していました。呼応するように名詞の「癒し」も多く用いられるようになっていきました。そもそも「癒し」という名詞は、かつて辞書に載っていなかったのです。「癒す」という動詞があるのみでした。ことばが市場を創り、市場がことばを変えていく。「癒し」はそうしたことばと市場の関係のダイナミクスが、わかりやすく可視化された例でした。この相互作用の面白さが、研究を深める大きな原動力になりました。

— 先生はことばの研究において、「社会記号」という概念を用いられています。

松井 「社会記号」は、博報堂ケトルの嶋浩一郎さんが提唱した概念で、私は「世の中の新しい動きや事象を言い表すために創られたことばであり、人々の潜在的なニーズを言語化したもの」と定義して使っています。私がことばとマーケティングの研究を始めたもう一つのきっかけが、「女子」ということばでした。30代の頃、同年代の友人の女性が「私たち女子が」という言い方をしたのです。とっさに「男は30代で『男子』とは言わないよ」と違和感を覚えたのですが、それと前後して「女子会」「女子力」といったことばが頻繁に用いられるようになりました。さらにホテルやレストランがこぞって「女子会プラン」を企画するなど、ここでもことばがマーケットを創っていったのです。

— 先生は「社会記号」としてのことばが、新たなマーケットを創造するだけでなく、特定の行動への人々の心理的なハードルを下げる機能を持っていると指摘されています。

松井 例えばある行為を示すことばが生まれたことで、その行為が社会的に容認されていくという現象があります。「女子会」もその一つです。かつて専業主婦と外で稼ぐ夫という関係の中で、夫は公然と飲み歩くことが認められているのに、妻が家の外で飲むことにはネガティブな捉え方をされていました。「私も飲み会に行くから」とは言いづらかったのです。ところがそれが「女子会に行くから」という表現に変わると、夫も「ああ、そうか」と了承せざるを得ない雰囲気が生じます。「女子会」という社会記号が、伝統的な社会的制約から女性を解放したともいえるのです。

「婚活」ということばにも、そういった側面があります。かつては「結婚するために商業的なサービスに頼るのは恥ずかしい」という意識があり、結婚相談所などはこっそり行くところでした。しかし「婚活」ということばができたことで、公然と語っていいテーマに変化したのです。私が指導した学生の中に「婚活」をテーマに博士論文を書いた人もいますよ。

この「◯活」ということばは、就職活動を縮めて「就活」としたのが起源とされますが、「活」の前に別の語を付けることで、「◯◯を積極的に行う」というポジティブな意味合いを持たせるものになっています。「朝活」「妊活」などもそうですね。「婚活」には「なんでそれを積極的にやっちゃいけないの」「なんでそれにお金を払ったらいけないの」という含意があります。いわば既存のカルチャーに対するカウンターとなるような社会記号です。最近は「推し活」が注目されていますね。

   
共著『欲望する「ことば」「社会記号」とマーケティング』(集英社新書)は、新たなことば(社会記号)が、いかに人々の潜在的欲求を喚起し市場を創るかを、「女子力」や「草食男子」などの豊富な事例で解き明かした

— 社会記号となったことで、それまでの「うしろめたいこと」「避けるべきこと」という印象が薄れるという現象は、ほかにもありそうですね。

松井 「バツイチ」「バツニ」といった「バツ◯◯」ということばは、離婚経験という、これまで「うしろめたいこと」と思われていた意識を解放する社会記号になっていますし、「一人焼き肉」「一人カラオケ」など「一人◯◯」ということばも、「一人でするのはなんとなく恥ずかしい」と思われていた行動を「普通のこと」に変えています。

「お一人様」への偏見解消という点に関しては、もともとカウンター席で飲食をする文化がある日本のほうが、欧米より進んでいる面があったと思います。とはいえ日本でも単身でカウンター席で飲み食いするのは、ラーメン店や牛丼店がかつてそうであったように主に男性だったわけです。そこに「一人◯◯」という社会記号が出てきて、「男性が一人で食事するのはよくて、なぜ女性はタブーなのか」という風潮が生まれた。ことばによって女性のソロ活動がオーソライズ(お墨付き)を得たのです。

   
出所:『欲望する「ことば」「社会記号」とマーケティング』(集英社新書)
社会記号にはさまざまなものがあるが、松井先生の調査分析によると大きく「呼称」「行為」「脅威」「カテゴリー」の4類型にまとめられる

— そうした現象は、「ことばによってタブーが破られた」と解釈すべきでしょうか。それとも「社会が変化しつつあることが、ことばによって示された」と受け取るべきでしょうか。

松井 おそらく両方の要素がありますね。ベースとなる社会的な潮流がなければ、ことばの力だけで物事は変わりません。逆に変化の兆しがある場合は、ことばで示されることでそれが加速されるのです。

「エンディングノート」をご存じでしょうか。「生前に自分の希望を書き残しておきましょう」というもので、内容としては昔からある遺言書に近いものです。しかし、かつての遺言書は多額の遺産を持つ人が作成するものであって、「普通の人はそんなもの書かないよ」という感覚が一般的でした。一方、エンディングノートは何を書くのもその人の自由。「娘より息子のほうが料理好きだから、食器類は息子のほうに渡したい」といったささいな希望を含まれるようになり、遺言は今や「誰もが残すもの」になっているのです。通常であればことばとして残りにくいこと、家族であっても面と向かっては話しづらいトピックを言語化する仕組みともいえます。

もともと人々の根底に「死ぬ前にことばで自分の気持ちを遺しておきたい」という願望があるから、「エンディングノート」ということばが刺さったのでしょう。同時に、そうしたことばを耳にすることによって自分の気持ちに気付いたり、家族への気持ちを書き残すことが促されたりするという側面があるはずです。




優れた広告コピーは社会記号を内包する

— 制約を解き放つ社会記号と、企業が作る広告コピーにはどのような関係があるのでしょうか。

松井 いわゆる「刺さる」広告コピーは、社会記号を内包しているのではないかと考えています。私は学生に、マーケティングには「(1)知っていただく」「(2)好きになっていただく」「(3)買っていただく」という3つのステップがあると教えています。「好きになっていただく」ことは、「物事を自分事にする」という事象に関わってきます。言い換えれば「消費者に当事者意識を持たせる」ということです。例えば「介護脱毛」というビジネスがあります。「将来、介護される際に人の手を煩わせないよう準備しておく」という動機によって行われるものですが、これは「歳をとって体が不自由になっても、若い人に迷惑をかけたくない」という、高齢者の内なるニーズを可視化した社会記号的なコピーといえます。

— 以前、テレビ番組が介護をする側の人に取材し「毛があってもなくても変わらない」という話を何度か放送していたそうですが、それでもことばは広がっています。

松井 根拠がないにもかかわらず世間に浸透するということは、それだけ受容される潜在的ニーズがあったからでしょう。問題の本質はファクトより、各人が持つ内的な動機にあるのです。「人に迷惑をかけない自分でいたい」という自己肯定感や、「準備をしておくべきだ」という規範意識が根底にあり、ことばがそれを後押ししたのではないでしょうか。一方で、ことばだけで世の中を動かせるわけではありません。「省エネルック(半袖スーツ)」が普及せず、「クールビズ」が定着したのも、時代の変化や人々の内的な動機に、ことばが合致したかどうかの差でしょう。

— 社会記号となったことばと、社会記号になり得なかったことばには、どのような差があると思われますか。

松井 「どういうことばが残るのか」を考えるとき、私がかつて研究の一環で取材したコピーライターや編集者などの人たちの発言を思い出します。彼らの結論は「ことばが表現しているものの実態がなければ、いくらことばを創っても、それによって社会が動くことはない」というものでした。

「女子会」ということばにしても、調べてみると「もともと女性は折に触れて同性だけで集まって飲み会を行っていた」といった実態があったのです。それに対して「女子会」というラベルを貼ることで実態が可視化され、「私たちのやっていたのは女子会だったのだ」という「自己確認」や「女子会って楽しそう。私もやってみたい」という「同化」の反応が出てきて、世の中を動かしていったのでしょう。

— まず実態があって、そこにタイミングよくネーミングが投下されることで社会記号が生まれるということですね。その逆に、ことばから現象が生まれる可能性はあるのでしょうか。1970年代、「金曜日はワインを買う日」というサントリーの広告コピーが流行し、実際に多くの人が週末に向けてワインを購入するようになりました。これは「新しいライフスタイルの提案」と捉えられていたようです。

松井 「コピーで直接世の中を変えられる」という考え方は、いささか安直かもしれません。戦後に出てきたコミュニケーションについての古典的な仮説に、「コミュニケーションの2段階の流れモデル」があります。これは「多くの人は少数のオピニオンリーダーの影響を受けて意見を形成しており、オピニオンリーダーはマスメディアの影響を受けて意見を形成している」という考え方です。

この「2段階の流れモデル」と対比されるのが、「意図したメッセージが、情報の受け手によって直接、全面的に受け入れられる」という、さらに古典的な「皮下注射モデル」です。注射液が身体に直接入るように、情報が受け手に対して抵抗なく注入されるイメージですね。典型的にこのモデルが想定しているのは、強い情報統制が行われる全体主義的体制です。そのような状況では、異なる意見に触れる機会が制限されるため、権力者のメッセージがほぼ直接的に受け入れられてしまう可能性があります。しかし、日本をはじめとする現代の民主社会では、多様な情報源が存在し、人々は必ずしも一方向的にメッセージを受け取るわけではありません。

一方の「2段階の流れモデル」は、インターネットがなかった1970年代の状況ならば、ある程度マーケティング上は有効と考えられます。そこには「強制のない民主社会では、人々は自分の欲求や価値観と結びつかなければ、その行為を行おうとしない」という前提があります。つまり「休日の前の夕食は、いつもより豪華にしたい」「我々も豊かになったから、食事にワインを合わせるといった優雅なことをしたい」といった潜在的な動機がもともとあったところに、「金曜日にワインを買ってはどうか」という提案があって、初めて消費行動につながっていくのです。

— 素地のないところに提案しても、効果はないということですね。

松井 すでに言及したとおり、ライフスタイル提案の失敗例として有名なのが、1979年に大平正芳内閣で提唱された「省エネルック」です。前年の第2次オイルショックを受けて、政府が省エネ対策として半袖のスーツを推奨したのですが、まったく普及しませんでした。その15年後の1994年に、首相となった羽田孜さんが半袖スーツを愛用していることが話題になりましたが、そのときも話題になっただけで、一般層には広がりませんでした。その後、2005年に小泉純一郎内閣の下で小池百合子環境大臣が中心となって進めたのが「クールビズ」です。「冷房温度を高めに設定した夏のオフィスで涼しく過ごすためのファッション」というコンセプトで、こちらは受け入れられ、世の中に定着しました。

同じようなことを言っているのに片方はうまくいかず、片方はうまくいったというのは、発信する側の違いというより、やはり受け手となる人々の内的な動機に原因があったのでしょう。一つは時代の流れで、アップルのスティーブ・ジョブズがタートルネックのセーターばかり着ていたり、マーク・ザッカーバーグがいつもTシャツでいたり、テック系の若い起業家たちがカジュアルな服装で大きな事業を行ったりしたことで、「着るものと仕事の質は関係ない」という概念が浸透したこと。あるいは地球温暖化で本当に暑くなってきて、多くの人が「夏にスーツなど着ていられない」と感じるようになったということも影響しているかもしれません。




社会記号化がもたらすネガティブな影響

— 「ことばが世間の見方を変える力を持っている」ということは、逆に言えば社会記号化することでもたらされる、ネガティブな影響もあるということでしょうか。

松井 そもそも、すべてのことばにはポジティブとネガティブの両面があります。社会記号で言えば、曖昧だった概念を一つのことばにして可視化した場合、物事や事象が理解しやすくなる一方で、「思考の節約」が生じ、細かな差異が無視されるというネガティブな現象も起こりかねません。本当は複雑なものなのに単純化して捉えてしまい、深く思索することを放棄してしまうということですね。

— 「女子力」ということばは、ジェンダー的な議論の対象にもなりました。

松井 このことばが普及する中で、「『女子力が高い』という言い方は、『女性はこうあるべき』という伝統的規範を前提としている」という批判が生まれたことなどをきっかけに、「女子力論争」が起きましたね。当時「サラダを取り分けるかどうか」という論争があり、宴会などでサラダを取り分け、女子力をアピールする人のことを「サラダ取り分け系女子」と呼ぶなど「性役割の押し付けである」といった反発も生みました。

私も「女子」関連のことばを研究で取り上げていたためにいくつかの取材を受けましたが、それを通じて「メディアの性質によってことばの捉え方が違う」ということを発見しました。例えばリベラルな論調で知られる朝日新聞の場合、「女子」ということばは、「性役割を押し付けるネガティブワード」として捉えられていました。ある女性も、「あの『女子』ということばが本当に嫌」と言っていましたね。社会記号にはそうした負の効果もあるということです。

SNS上のことばはどのようにご覧になっていますか。

松井 SNSよりさらに前、インターネット登場以前と以後で大きく異なるのは、人々が日常的に接する言語環境のあり方です。新聞や本は以前からありましたが、生活の多くが文字情報によって媒介される状況が生まれました。電話で済ませていた用件はメールとなり、さらにSNSへと移行しました。

その結果、良きにつけ悪しきにつけ、活字で表現されることばの使用頻度が増え、影響力がどんどん大きくなっています。文字はもともと音声言語を記録・保存する手段として発達してきましたが、現代では文字が先行し発語が後追いになっている例も多いのです。例えば「萌え」ということばがありますね。もう30年ぐらい使われていますが、もともとは「2ちゃんねる」などで使われていたネット上のスラングで、キーボードで打たれることばとして定着しました。当初は口語としては限定的でしたが、いまでは会話の中にも自然に登場するようになっています。

SNSで発信されることばは非常に多いので、社会記号がそこから生まれることも増えました。さらにSNSの場合、「誰でも世界中に向かって発信できる」という特徴があります。20世紀までは、世界に向けて自分のことばを発信させるためにはメディアが必要で、影響力のある媒体に取り上げられるためには、それなりの権威が求められました。しかしいまやSNSを通じて誰もが発言できるので、強い共感や怒りを喚起する内容は、あっという間に拡散していくのです。

— 炎上など、SNSの普及によるネガティブな問題も出てきています。

松井 拡散性が飛躍的に高まったことで、ことばの威力も強まっています。それは時に、政治家が不用意な発言によって社会的生命を絶たれたり、SNSで非難された人がそれを苦にして自殺したりするほどの力を持っています。「ネットで批判されたからといって、気にする必要はない」という考え方もあります。しかし、SNSに費やす時間が長くなると、その空間が自分の人生の大部分を占めるようになり、あたかも全世界から自分が強く否定されているかのように感じてしまいます。

ネットの発達によってフェイクニュースの問題も深刻化しています。ファクトを伴わない情報発信であるフェイクニュースは「流言」の現代版で、それ自体は社会学や心理学で昔からある研究テーマです。流言についての古典的研究で知られた前世紀の社会学者タモツ・シブタニは、人は不確実な状況に陥ると、何か腹落ちする説明を共同でつくり出そうとし、それが流言になる、と述べています。

東日本大震災の福島原発事故でも、フェイクニュースが広まりました。大都市から遠くないところで原発事故が起きたことで人々が不安に駆られ、正確性よりも手っ取り早い説明を求めてさまざまな流言(噂)が生まれたのです。一昔前なら人と人が直接ことばを交わす話しことばの中だけで飛び交った流言が、いまやSNSを通じてテキスト、画像、動画にまで領域を広げ、非常に強い影響力を持つようになってしまいました。

ただその場合も「人がフェイクニュースを信じてしまうのは、その人にとってその内容が何かしら腹落ちする要素を持っていたから」とはいえます。ここでも内的な動機が、情報を受け入れる上で決定的な役割を果たしているのです。

   




文化輸出におけるマーケティングの課題

— 先生は近年、「日本の文化的産物を海外に輸出する際に起きる問題」についても研究されています。

松井 マンガや日本食といった日本固有の文化を海外で売るためにはどんな障害があり、それをどう乗り越えていくかというのが、近年の私の研究テーマの一つです。例えば子ども向けマンガの『ドラえもん』には、しずかちゃんの入浴シーンがありますが、これはアメリカの倫理では許されず、そのままでは出版できません。そのため現地で作品をセールスする人たちは、シーンを修正するか、そのエピソード全体をカットするかどうかといった判断を迫られます。こうした文化的衝突を解決しようとする人たちを、私は文化の「ゲートキーパー(門番)」と呼んで注目しています。

ことばの使い方一つで、マーケットの広がり方が変わった例を紹介しましょう。アメリカではアメコミの影響が強く、「コミック」というと「男の子が読むもの」という考えが常識で、大人の女性はまず読みませんでした。そこで日本の少女マンガ『セーラームーン』を売る際、あえて「コミック」ということばを避け、映画(娯楽産業)を意味する「motion picture entertainment」をもじって、「motion-less picture entertainment(モーションレス・ピクチャー・エンターテインメント)」という新しい名称を用いたところ、女性が手に取るようになったという事例があります。ここでも、ことばが市場への扉を開く鍵となったのです。

— 日本食ブームと言われますが、食の分野ではいかがでしょうか。

松井 食においても、多くの場合、現地の文化や「ことば」の壁が立ちはだかります。一方で、うまくいった事例もあります。「うまみ(umami)」は、かつて欧米では独立した味覚とみなされていませんでしたが、味の素などの発信によって甘味、酸味、塩味、苦味に続く「第5の味覚」として認められたことで、世界的な共通語になりました。

また、未知のものを理解してもらう場合、相手にとって「既知のもの」とつなげる戦略が有効です。あるニューヨークのカレー店ではコシヒカリをライスに用いていました。しかしそのまま「コシヒカリを使っています」と謳ってもアメリカ人はまずわからない。そのため、知恵を絞った経営者は「sushi grade(スシ・グレード)のライス」とアピールしたのです。sushiはアメリカ人にも広く知られていますから、「sushiに使われるような高品質な米なのか!」とその高級感を伝えることができました。また、あるおにぎり店では商品を「ライスボール」ではなく「portable sushi(持ち運べる寿司)」と打ち出しました。これも「sushi」という既知の概念を利用して、未知の商品をポジティブに伝えている好例です。

— 相手の文化を理解した上で、適切なことばを選ぶ必要があるのですね。

松井 そのとおりです。別の例もご紹介しましょう。ニューヨークに、鰹節や昆布などさまざまな出汁の素材を自由に組み合わせて自分だけのオリジナル出汁を調合できる店があります。これはアメリカ人に馴染みのあるサンドイッチ店「サブウェイ」のような「カスタム文化」に、出汁という未知のものを接続させた成功例。ターゲットとなる人々の文化や既存の概念(既知)を理解し、そこにうまく接続する「ことば」や「仕組み」を見つけ出すことが、文化輸出におけるマーケティングの要諦なのです。

結局のところ、市場を動かしているのは一人ひとりの行動であり、そのスイッチを入れるのが「ことば」の力なのだと思います。社会記号は、人々の心にあるけれど形になっていない「内的な動機」や「潜在的なニーズ」に光を当て、可視化する役割を持っています。それは時に「女子会」のように新しい市場を創り出し、時に「sushi」のように異文化の壁を越える架け橋にもなる。一見、捉えどころのない「ことば」と「市場」の関係ですが、そこには人間心理のダイナミズムが働いているのです。これからも、そうした「ことば」が社会にもたらす影響をテーマに研究を進めていきたいですね。

   
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