「歌う言語」、中国語との出会い
— 日本語と中国語を往復しての文筆活動を続けていらっしゃいます。その経緯をお聞かせいただけますか。
新井 私は10代の頃から、「将来はものを書く仕事をしたい」という気持ちがありました。ただ、その時点で「中国語で書く」未来を想像していたかというと、まったくそんなことはありませんでした。文章を書く仕事にも、ジャーナリズム、研究、文芸などいろいろありますし、どの種類の文章を、どの言語で、どんな媒体に向けて書くのか、学生の頃はまだ輪郭がはっきりしていなかったのです。
また、書くことだけではなく、子どもの頃から海外への憧れがありました。テレビの旅番組を見るのが好きで、出演者が外国語でやり取りをしている姿が、自由で楽しそうに見えたのです。外国語ができることや、海外に出ることが「面白そう!」という感覚が先にあって、「書くこと」とは別の線として心の中にありました。ところがある時期から、その2つが重なっていきます。
転機は、1980年代前半の中国をめぐる状況でした。改革開放が始まり、海外の特派員が中国に入り始めた頃です。ちょうど私は大学で政治学を専攻しており、中国や香港をめぐる政治・社会の動きに関心を深めていました。私は奨学金の試験に合格し、北京への留学が決まります。そして1984年、香港返還に向けた交渉が始まったことで、香港という場所への関心が一気に強くなりました。香港は卒論の題材としても魅力的に見えましたし、実際に現地へ足を運んで、人に会って話を聞くようにもなりました。そのとき、香港のジャーナリストと出会い、「あなたは北京に留学するんでしょう?だったら、旅先で見たことや写真を送ってくれないか。雑誌に載せるよ」と声をかけられたのです。
ただ、その時点では私は学生ですし、文章のプロでもありません。まして留学前で、中国語もまだ十分ではありませんでしたから、半信半疑でした。けれども、留学が決まっていたタイミングでもあり、「やってみよう」と思いました。書くことが突然、現実の仕事になった瞬間でした。
— それで留学中、初めて中国語でのメディア執筆を始められたのですね。
新井 北京に留学してから、NHKのテレビ中国語講座の雑誌で、いわば「中国留学生日記」のような連載を書きました。同時に、現地で見たものを、限られた中国語の力で書いて送ることを繰り返していって、文章が媒体に載り、読者に届いていく経験を積みました。
この時期の私にとって、中国語で書くことは「中国語で完璧に文章を組み立てる」というよりも「現地で見たものを言葉にして届ける」ことでした。書く内容が先にあって、言語はそれを運ぶ器として身に付ける。最初から「日本語と中国語を往復して書く」という意識で始めたわけではなく、現場の必要に迫られるようにして2つが重なっていった、というのが実感に近いです。
今振り返ると、この重なりは偶然のようでいて、当時のメディア環境や国際関係の隙間に、ちょうど私の立ち位置が上手くはまったのだと思います。香港や台湾のメディアが中国に入りにくい時期に、北京に行く日本人留学生がいて、旅の情報や現地の様子を伝えられる。その小さな役割が、書く仕事への入り口になりました。
— 中国語の第一印象として「音(トーン)」と「文字の密度」を挙げていらっしゃいました。先生が感じた“歌うような言語”としての魅力、そして日本語との対比を、体験を交えて聞かせてください。
新井 中国語に初めて触れたときの驚きは、まず音でした。大学で第二外国語として中国語を選び、最初の授業に出たときのことを、今でもはっきり覚えています。中国語は、音節ごとに高低のパターン、つまりトーンがありますよね。よく「マー」を4つの言い方で示す説明がありますが、同じように聞こえる音でもトーンが違うと意味が変わる。音そのものが意味を担っているところに、日本語や英語との違いを感じました。
その驚きを決定的にしたのが、教わっていた先生の授業です。私が習ったのは藤堂明保先生という、中国語の音韻学を専門にされた先生でした。先生は発音の重要性を熟知しておられて、授業の初回にカセットプレイヤーを持ってきて、いきなり京劇の曲を流されたのです。
京劇の旋律には、譜面を読むような感覚があります。中国語のトーンは、まさに音の譜面みたいなものだ、ということを耳で聞いて理解しました。私はそのとき、「この言語は歌うんだ」と感じたのです。
先生の教え方も印象的でした。最初の1年は、漢字をほとんど使わず、ピンイン(中国語の発音記号)で入る、という方針でした。日本人は漢字を見ると、どうしても「漢文を読もう」としてしまいます。けれども藤堂先生は、音から入るべきだという立場でした。最初に音として言語を体に入れることが、その後の中国語理解の土台になったと思います。
そして次に来たのが、文字の衝撃です。中国語の文章を見たとき、日本語とは視覚的な情報の質が違う、と感じました。日本語は漢字とひらがな・カタカナが交ざっていて、見た目の印象としては「まだら」です。漢字だけが意味を背負うわけではなく、かなの部分は音を担い、助詞や活用が流れをつくる。ところが中国語は、基本的に漢字だけが並び、どの字も意味の単位になり得る。そのため文章が「ぎっしり詰まっている」感じがするのです。私はその感覚をよく、チョコレートがぎっしりと詰まった箱に例えます。一つひとつ、しっかりとした情報の塊として詰まっている。中国語の文章は、見た瞬間に、情報が圧縮されていることを感じました。
この「音の譜面」と「文字の密度」は、どちらも中国語の第一印象として私の中に残っています。
標準語の広がりがもたらす影響
— 言語と文化の結び付きについて、「文化を伴わない言語は存在しない」というお話がありました。中国語が多民族・多言語の環境で“共通語”として機能してきたことは、話し方や合意形成にどんな影響を与えていますか。日本語との違いなども含めて、教えていただけますか。
新井 日本は島国で、国民国家としてのまとまりを比較的つくりやすかったのに対し、中国は巨大な大陸で、多民族が暮らし、歴史的に人の移動や吸収が繰り返されてきた場所です。よく「漢民族が多数派」と言われますが、漢民族自体、単一の血筋でできているわけではなく、周辺の民族を吸収しながら形成されてきたという歴史があります。
こうした多様性の中で、中国語は「共通の言葉」として機能してきました。つまり、違う言葉を話す人同士が出会う環境が、前提としてあるわけです。その前提は、当然ながらコミュニケーションの作法に影響します。
言葉が通じないという前提があると、相手に確実に伝える工夫が必要になります。私が印象的だと感じたのは、中国語の会話では、相手の言葉を繰り返して答える、いわゆるオウム返しをする場面が多いことです。質問された語をもう一度言って確認し、それに対して返答する。「はい」「いいえ」だけだと誤解が残りやすいので、同じ語を使って確認しながら進めることで、誤解を減らしていく。この作法は、母語が違う可能性を常に含んだ社会では合理的です。
また、「中国の人はよく話す」と言われることがありますが、そこにも言語の性質と文化の両方が関係していると思います。中国語にはトーンがあり、音に動きがある。先ほどの「歌う言語」という話につながりますが、話すこと自体が楽しさを帯びやすい。さらに文化論の中でも、「中国人はしゃべることが好きで楽しい、食べることも好きで楽しい。口の楽しみを重視する文化だ」という定番の言い方があります。
それに対して日本語の文化では、黙ることが美徳だとして、話すことよりも、心の中で察することや、「言わないこと」が重視される場面があります。これは優劣ではなく、文化の作法の違いです。ただ、こうした作法の違いは、異文化コミュニケーションの場では摩擦の原因にもなります。だからこそ、言語を単なる道具として扱うのではなく、その背後にある文化の規範を意識することが重要なのです。
文化を伴わない言語は、存在しません。言語は抽象的な体系として語られがちですが、実際には必ず文化がセットでついてきて、頭の中に「こういうことは言うもんじゃない」という声を立ち上げます。特に母語の場合、その声は強い。何かを言おうとした瞬間に「そんなこと言わないの」と親に言われた記憶がよみがえって、言葉が止まってしまうような感覚です。技術的には表現できるのに、文化が言わせてくれない。私はそこに、言語と文化が絡み合うリアルがあると思っています。
— 標準語の整備と普及は、教育やメディアを通じて進みました。標準語が広がる過程で、国民意識や「私たちは何者か」という感覚は、どのように形成・変化したと見ていますか。
新井 まず日本について言うと、私たちは今、「標準語があるのが当たり前」だと思いがちですが、歴史的には当たり前ではありませんでした。明治の初めには、今の意味での国語や標準語は確立していなかった。江戸時代まで遡れば、地域の言葉が強く、方言が通じないことも普通にあったはずです。
象徴的なエピソードとして、西郷隆盛が薩摩から江戸に来たとき、勝海舟と話が通じなかった、という話があります。「同じ国の中でも言葉が通じない」という感覚があったことを示す話として、よく語られます。私自身も1980年代、新聞記者として仙台に赴任したとき、方言がわからない場面がありました。国内にいても言葉の壁は起こり得るのです。
では、その日本で標準語はどう広がったのか。国語・標準語を何にするかは、長い議論の末に決まっていきます。明治末頃まで、30年以上かけて話し合い、最終的には東京の言葉が標準語とされました。ただ、「制度として決まった」ことと、「人々が実際にそれを耳で聞いて共有した」こととの間には、時間差があります。
ここで重要な役割を果たしたのが、メディアです。全国の人が「これが標準語だ」と実感を持って共有するようになったのは、ラジオ放送が全国に届くようになってからです。私は一つの目安として1920年代後半、NHKの放送が全国に伝わるようになった時期を挙げています。それ以前は、学校の先生が「標準語」を教えようとしても、教える側も学ぶ側も、実際の音をほとんど聞いたことがない。ひらがなで書かれた標準語を読み上げるようにして教える形です。つまり、標準語は「合意形成」と「音の共有」を経て、ゆっくり社会に浸透していったのです。制度だけでは終わらず、メディアが人々の耳を揃えたところで、初めて日常の言葉として定着していったのだと思います。
— 中国でも同様の流れだったのですか。
新井 中国の場合、状況はさらに重層的です。先ほど申し上げたように、多民族・多言語の環境があり、地域ごとに言葉が大きく違う状況のため、共通語が必要になる。ただし、ここでも「決めること」と「広がること」は別です。共通語が必要だからといって、自然に統一されるわけではありません。教育、行政、メディアなど、多くの制度的支えがあって初めて広がります。そしてその過程は、言語だけではなく、「私たちは同じ集団なのか」「何を共有しているのか」という自己認識の話につながります。
標準語は、便利な道具であると同時に、社会の境界線を引く力を持ちます。標準語を話せるかどうかで、中心と周縁が分かれてしまうこともある。逆に、標準語があることで広域の共同体意識が成立する面もある。標準語の普及は、国民意識やアイデンティティ形成と切り離せないテーマなのです。
日本と中国を比べると、似ている点も違う点も見えてきます。似ているのは、標準語が「自然に生まれた」のではなく、議論や制度、教育、メディアの力で「つくられ、広げられた」点です。違うのは、その背後にある多様性の大きさです。日本の方言の多様性と、中国の地域言語(しばしば方言と呼ばれますが、互いに通じない言語に近いものもある)の多様性は、規模も層も違う。その違いは、「共通語が必要だ」という圧力の強さや、共通語が担う政治的意味合いにも影響するでしょう。
最終的に、標準語の普及は「同じ言葉を共有する」という事実を通じて、「同じ社会に属している」という感覚を支えます。それが教育とメディアの役割の大きさであり、同時に注意深く扱うべき点でもある、というのが私の見立てです。
— 近代以降の「言葉の往来」について伺います。漢字は中国から日本に入った一方で、近代以降は日本で整えられた概念語が中国語に取り込まれる流れもあったということです。このような言葉の往来は、何を示しているのでしょうか。
新井 私たちは「漢字は中国から日本に入ってきた」と習いますし、それは大きな流れとして正しいです。ただ、近代以降の言語の動きを見ていくと、かならずしも一方向ではありません。日本が近代化で、西洋の概念を翻訳し、制度や学問、具体的には政治や経済、社会、哲学、科学領域の言葉を整備していく過程で、漢字を用いた新しい概念語が大量につくられ、定着しました。重要なのは、それが「漢字で書かれた新語」だったことです。すると、漢字でつくられた概念語は、他の言語圏に比べて中国語圏へと移植しやすい。もちろん、文字が同じだからそのまま通じる、という単純な話ではありませんが、翻訳の回路として漢字が強力に働いたことは確かです。西洋概念を受け入れる際に、日本で整えられた語彙が、中国側へ入っていく。そうした動きが起きました。
こうした「往来」を見ると、言語が単に文化を映すだけでなく、社会の近代化の装置でもあることがよくわかります。近代化とは、制度の輸入だけではなく、「それを語る言葉」の輸入と整備でもあるのです。何かを制度化し、教育し、報道するには、共通の語彙が必要です。その語彙がどこで生まれ、どう動いたかを見ると、近代化のルートが見えてきます。また、この往来は、単に「日本がつくって中国が受け取った」という上下関係の話ではありません。時代や地域、政治状況によって、受け取り方も変わりますし、中国国内で再編されて独自の意味を帯びていくこともある。往来とは、移植され、変形され、定着し直すプロセスです。ですから私は、漢字圏の共有は「同じ意味を保証する」ものではなく、むしろ「行き来が起こりやすい条件」をつくるものだと捉えています。
その意味で、近代以降の語彙の往来は、日本語と中国語の関係を「輸入/輸出」のような単純な図式にするのではなく、相互に影響し合いながら更新してきた歴史として捉えるほうが、現実に近いと思います。言葉は、動きます。そして動く言葉は、社会のあり方そのものを変えていくのです。
言葉は、単なる道具ではない
— 翻訳・執筆活動について伺います。先生は翻訳を「言葉を置き換える」のではなく、まず“情景として見て”、その景色を日本語で丁寧に書く方法だとお話しされていました。「自然に耳で聞こえる日本語」に整えるとはどういうことか、お聞かせください。
新井 翻訳というと、原文の一語一語に対応する日本語を探して置き換える作業だと思われがちです。もちろん、そういった側面もあります。ただ、私自身が翻訳のときに意識しているのは、中国語で読んで頭に浮かんだ景色を、まずは自分の中でしっかり立ち上げること。その情景を、そのまま丁寧に日本語で書いていく、という方法を取っています。
つまり、言葉から言葉へ渡すのではなく、言葉が指し示す世界を「見て」、それを日本語で描写する。これは翻訳というより、一度「読む・見る」を経てから「書く」行為に近いのかもしれません。訳文が「日本語として自然」だというのは、紙面上での見た目以上に、「耳で聞いて自然である」ことが大きいのだと思います。
「自然に耳で聞こえる日本語」とは、文法的に正しいというだけではありません。日本語としてよくある言い回し、呼吸のリズム、語順、間の取り方—そういうものが整っている状態です。逆に、原文の語順に引きずられて日本語にすると、意味は合っていても、耳に引っかかる文章になりがちです。私はそこを避けたかった。だから一度、頭の中で日本語として語ってから書く、という順序を大切にしました。
私たちは文章を書くときも、本当は頭の中で一度“語って”います。翻訳にも同じことが言えます。中国語の文章を読んで情景を立ち上げたら、それを自分の耳に自然に聞こえる日本語として、頭の中で語ってみる。その「内側で語った日本語」を、書き取っていく。すると、読者が読んだときにも、すっと入る日本語になりやすいのだと思います。
— 言葉の使い方について、ぜひ読者にアドバイスをいただけますでしょうか。
新井 翻訳や執筆に携わっていると、「言葉は道具だ」という発想だけでは足りないと感じることが多々あります。私はよく、「私たちは自分で考えてしゃべっているつもりでも、半分くらいは言語がしゃべっている」と言うのですが、これは比喩ではなく実感です。私たちは完全に自由に言葉をつくっているわけではなく、既に社会の中に存在している言い回しや、場面にふさわしい語彙を選んで話しています。完全に同じ意味の表現は少なく、どの言い回しを選ぶかで、ニュアンスも立場も変わってしまう。言葉について考えるとき、そのことを意識した方がいいと思っています。
そして、先ほども述べたように、言語には必ず文化がついてきます。私は現在パリに滞在していて、チャイナタウンなども見ていますが、フランス語の「ボンジュール」という挨拶は、単なる形式としての挨拶ではなく、「あなたを見ています」「コミュニケーションを始めます」という合図として強い力を持つのだということを実感しました。日本の感覚で、黙ってお店に入店すると、そっけなく背を向けられるような感覚すらあります。逆に、笑顔で「ボンジュール」と声を掛けるだけで、一気に場が開くのです。
中国語の呼びかけも、社会変化とともに揺れてきました。かつて「同志」という言葉が呼びかけとして使われることがありましたが、今では特殊な場に限られ、日常では使われません。「師傅」を使おうという時期もありましたが、それも定着しきらず、近年はまわりまわって「你ニーハオ好」が呼びかけとして広がってきました。もともと你好自体、近代化の中で「グッドモーニング」や「ボンジュール」のような挨拶を模してつくられた新しい表現です。それが2010年代以降、呼びかけとしての役割が強まっている。私はこれを「你好のボンジュール化」と呼びたくなるのですが、挨拶一つをとっても、言語が社会の変化を映し、同時に社会の作法をつくり直していくことがわかります。
この話は、分断の話にもつながります。民族の違いを、生物学的な切れ目として捉える考え方は、19世紀のダーウィンの時代には強くありました。しかし20世紀後半にDNAが発見され、遺伝子を調べられるようになると、民族と民族の間に明確な切れ目はないことがはっきりしてきます。白人と黒人の間にも、日本人と中国人の間にも、グラデーションがある。生物学的に連続性のあるものなのです。
すると、現代において「民族を定義するものは何か」という問いが出てきます。そのとき残りやすいのが、言語です。言語は境界線を引きやすい。だからこそ、言語の違いが「あなたたちと私たちは違う」という線引きの根拠になり、対立を引き起こしてしまうこともある。もちろん、違いそのものが悪いのではありません。しかし、線を引く言葉の使い方が、分断を固定化してしまう危うさは否定できません。言語が、社会を分ける力を持つからこそ、私たちは言葉を使うと同時に、言葉に使われてもいる。そのことを自覚する必要があると思います。








