国語が大嫌いだった少女を変えた、画期的な30分
— 苅谷さんはことばや言語教育を専門とされ、特に“伝説の国語教師”と呼ばれた恩師・大村はま先生に関する活動に力を入れてこられました。大村先生との出会いを教えていただけますか。
苅谷 私は子どもの頃から本を読むのは大好きだったのですが、学校で学ぶ教科の中では、「国語」が一番嫌いだったんです。何を求められているのかがよくわからず、授業を受けても何か確かなものを得た感じがしませんでした。最初に読んだときに心を動かされた作品であっても、教材として3週間もかけて端から細かくやっていくと、「最初に読んだときの感動はどこへ行ったんだ」と思うようなことも多かった。しかも「正解」とされる答えが、私にはどうもピンとこないなどということはいくらでもあって、もう本当に国語が嫌いでした。
そんなふうに国語に対してネガティブな状態の中、父の転勤で石川県金沢市から東京都大田区の区立中学校に中学1年の夏休み明けに転入し、国語教師の大村はまと出会いました。第一印象は悪かったのです。大村は当時63歳でしたが、小柄ながらも活力にあふれていて、非常に真面目で一生懸命そうな人でした。「あ、この人がこの真面目さと一生懸命さで、細かい国語の授業をやったらうっとうしいだろうな」と、うんざりしたのを昨日のことのように鮮明に覚えています。
大村はま略歴
1906年横浜市生まれ。東京女子大学卒業後、長野県諏訪市の諏訪高等女学校、東京府立第八高等女学校で経験を積み、終戦後、新制中学校へ転任。後に「国語単元学習」と呼ばれるようになった授業を展開する。1979年に教職を去るまで、単元計画をたて、独自の教材、子どもを自然に誘う「てびき」を用意し続けた。大村教室でことばの力と学ぶ力を手にして巣立った教え子は5000人といわれる。退職後も90歳を超えるまで、新しい単元をつくり続け、「教える人は、常に学ぶ人でなければならない」ということを自ら貫いた。2005年、98歳で逝去。
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— その第一印象は、どのようにして覆ったのでしょうか。
苅谷 転入して最初の授業で、大村は夏休みの間に初めて行ったヨーロッパ旅行の土産話をしてくれました。時間にして30分ほどでしたが、今、もうすぐ70歳になる私が、「これまでの人生で最も画期的な30分を探せ」と言われたら間違いなくそこになるくらい、驚きの体験でした。
大村がやわらかな、くつろいだ調子で語り出すと、エピソードのどれもが生き生きとして面白く、「ことばってこんなにパワーと魅力と可能性を持っていて、頭の中にこんな風に映像をつくり出すのか」と思ったんです。話を聞くことが少しも我慢を伴うものではなくて、ただただ聞きほれました。最初の10分もたたないうちにはっと我に返り、自分が聞きほれていたという事実に気が付いて「これはすごいな」と。比喩になりますが、それまで安っぽい音しかしない粗末なオーディオセットで聴いていた音楽が、突然非常に高級なステレオから流れる音になったような、いや、生の演奏を聞くような、そんな違いでした。話題が豊富で知的で、旅の細部を語る描写はそのまま目に浮かぶようでした。当時の中学生にとってヨーロッパ旅行など遠い夢のような時代で、なおさら終わるのが惜しいほど心ひかれたのです。
私は比較的勉強が得意な「できる子」だったのですが、本当にあのときは鼻っ柱をへし折られたような感じがしました。「これがことばの力だとしたら、私は『ことば』を全然知らなかった。大きな勘違いをしていたな」と。「そしてこの人が伝えたいものがこれならば、私は国語を勉強しよう」と決意しました。13歳の誕生日直後のことでした。
決して繰り返さない「単元学習」の新鮮さ
— 大村先生の授業は「単元学習」という独自の内容で、「てびき」というヒントを使って生徒が主体的に考えるスタイルだったそうですね。
苅谷 はい。大村の教室では、今でいう“プロジェクト・ベースド・ラーニング(PBL)”のような、毎回異なるプロジェクトを積み重ねていく授業を行っていました。驚くべきことに、大村は約30年間そういう授業をし続けた中で、同じ内容が繰り返されたことは1回もありませんでした。「去年うまくいったから今年もやろう」という発想のない人だったんですね。私が生徒だった頃はA組からD組まで4クラスあったのですが、クラスごとに違う単元だったりもしました。
— すべて違う単元ですか。それは信じられない労力ですね。
苅谷 驚かれることでしょう。大村自身が、「自分が新鮮ではなくて、どうやって新鮮な授業がつくれるのだ」と、とてもまっとうなことを考えていたのです。前にうまくいったことをなぞるのでは、なにか決定的なものが足りない。新鮮さをお芝居で繕うことはできない、そのくらいのこと、子どもは見抜くとわかっていたのです。「さあ今日から新しいことをしますよ」と口でいくら言ってもだめで、自分が本当に新しいものに挑むときにしか生まれない「引きつける力」や、自分自身も本気で「ちょっとドキドキしながらやってみよう」と思う姿勢を大切にしました。「安心」というものの持つプラス面より、そちらの挑戦を選んだ。だから、いつも偽らざる新鮮さが教室にあったのです。
よく「大村はま先生の授業で、典型的な単元を1つ教えてください」という質問を受けるのですが、授業内容がすべて違うので「典型」がなかった。そしてそのことが私たちを引きつけ続けました。ちょっと材料を変えたり難しくしたりという程度ではなく、「今度は一体何だろう」という新鮮さのために、大村はひたすら仕事をし続けたのだと思います。その手応えを知ると、手放せなくなったということかもしれません。
— 授業で使われていた「てびき」についても、今の学校教育の手法とは少し違っていたとお聞きしました
苅谷 「てびき」も一つの結論に導くためのものではありませんでした。大事なのは、「汎用性の高いてびきはたいして役に立たない」ということです。汎用性があるという時点で、それはもう平凡な、退屈なものになってしまっていて、子どもたちの目が覚めるようなインパクトを持たないのです。だから大村は、目の前の具体的な仕事(タスク)のための新鮮なてびきを常につくり続けました。決して押しつけがましくなく、先走りしすぎず、かといって平凡でもない。「なるほど!」「よし、それを入り口にしてみよう!」と思えるちょうどいいてびきでした。
例えば「書く」という授業について。今の小学校ではよく作文の構成として「はじめ・なか・おわり」を教えますよね。私は日本郵便の手紙作文コンクールの審査員をしているのですが、その「はじめ・なか・おわり」に毒されていると何が起きるか。はがきの文面なんて短いものなのに、子どもは「はじめとなかとおわりがなければいけない」と思い込んでいるのです。だから最初にまず予告的なことを書こうとして2行くらい使ってしまい、真ん中に書きたいことをなんとか書き、最後はそれを結ぶべきだと思って平凡な締めくくりのことばを書いてしまう。言いたいことは真ん中に書いたはずなのに、どうしてわざわざ平凡な終わり方で「楽しかったです」のようにして、エネルギーを落としてしまうのかと残念です。「はじめ・なか・おわり」はうまい作文の書き方を教えているようで、実は子どもの助けになっていないのです。
「書きたい人を生む」ためのてびきと、40とおりの景色
— 型にはめることで、子どもの自由な表現を抑え込んでしまっているのですね。では大村先生はどのように「書く」ことを教えていたのでしょうか。
苅谷 大村が力を入れていたのは「書きたい人を生む」という努力であり、「書くに値するものを、自分の世界から見つけ出す」ための「取材」の姿勢を教えることでした。
今の学校では、そういうものに突き当たる前に「さあ書きなさい」と言ってしまいます。例えば「動物園に遠足に行った話」や「修学旅行で京都に行った話」の作文を書かせると、どうしても漫然とした作文がそろってしまいますよね。「朝目が覚めたら晴れていてうれしかったです」で始まり、「バスガイドさんが面白かったです」「お弁当がおいしかったです」「家に帰って足が痛かったです」「楽しい遠足でした」のようなことを、多くの子どもが書いてしまう。どこにも焦点が当たっておらず、エネルギーを生む前に終わってしまう。書いたという実感も得られないまま終わってしまう。そもそも、「あのことを書こう!」という表現者の立場に立っていないことが多いのだと思います。
大村の手法は違いました。例えば、作文の導入部分のてびきを、手加減せずに20とおり以上も用意してくれました。どれも魅力的なので、私たちは黙って読んでいくうちに誘われて大村の手法は違いました。例えば、作文の導入部分のてびきを、手加減せずに20とおり以上も用意してくれました。どれも魅力的なので、私たちは黙って読んでいくうちに誘われてしまいます。この上に添えた「修学旅行の作文の書き出しのてびき」を見てください。大村は一緒に旅した人間として、本気になって取材し、書き出しています。その目の付けどころは平凡を脱して鋭く、また温かくて、心が騒ぎます。大村はこの書き出しに続けるようにして作文を書くことを誘っていますが、「つまらないことなど書けないな」と思います。「てびきにない書き出しで、私しか書けないことを書くべきだな」とも思い始めます。「あ、そうだ、あのことを書こう」「誰かが同じことを書かないでいてくれるといいな」と思って工夫するようになる。一人ひとりが記憶を掘り起こし、光を当てていき、本気で「書く人」になっていくのです。
そういう書く集団になったときの、教室のしんとした空気というのはすごかったですね。40人いたら40の異なる景色があり、「同じ場所で同じ時間を過ごしていたはずなのに、私には見えないものを見ていた人がいる」ということを知ります。国語の成績の良い子が尊敬されると決まっているわけではなく、「あの人の目に、あの出来事はああ映ったのか」と気付くのです。よくみんなが口先だけで「個性があって違っていいんだ」と言うのとは違う、心底「違うからこそ面白いんだ」と教室で実感できたことは、中学生の私たちに非常に価値のあることだったなと思います。
卒業生たちの記憶と「ことばのOS」
— 大村先生の授業を経験された方々は、具体的にどのような力を得たのでしょうか。
苅谷 大村の評伝を書いたのですが、私個人の体験だけで語るのでは不十分かと思い、取材段階で卒業生たちに会って話を聞きました。そこで驚くことが2つありました。1つは、「あなたが大村はまから得たものは何ですか?」と聞くと、みんな「うーん」と困ってしまうこと。ボキャブラリーが増えたとか、古典の良さがわかったとか、難解な現代文が読めるようになったとか、そういう個別のことはありでしょうが、それをいくら並べても「あの教室にあったものの本質ではない」という感じがどこかに残るのです。それを一言で伝えるのは難しいのです。
もう1つは、みんなあれほどリアルに教室の空気やエピソードを覚えているのに、一人ひとり覚えている具体的な授業の記憶が違っていたことです。私が決して忘れないと思っていた授業であっても、その授業があったことすら覚えていない同級生もいる。つまり、大村が投げ続けたボールがクリーンヒットするタイミングは、人によって違ったのです。いろいろな条件が重なったときに、子どもそれぞれが感動的な気付きを得ていたのですね。
後年、大村が亡くなる少し前にその話を報告したら、にっこり笑って「そうだと思うし、それでいいんだ」と言いました。「ことばの力は、本当に『その人のもの』になったら、これは誰にどう習いましたということは忘れていい。そこまでいかなければ、その人の言語世界ではないから。伝え、育てたことが、それだけ深く生徒の中に組み込まれたんだと思えばうれしい」と言っていました。
— まさに「ことばの力」を生徒の中に定着させ、自立を促していた証拠ですね。
苅谷 そうですね。大村が亡くなってだいぶたった後ですが、とても優秀な生徒だった同級生と話したときの答えが象徴的でした。「あの教室で得たものは、パソコンでいえば“OS”だった」と言うのです。個々のソフトウェアではなく、基盤である優れたOSを身に付けることができ、さらに「そのOSは常に更新されるべきもので、より良いものにしていくのは自分だ」ということも習ったと。私はコンピュータには詳しくないですが、このOSというたとえはかなり共感できました。
試験に出る英単語を覚えるとか、読解問題の効率的な答え方を身に付けるなどということとは全く次元が違います。「ことばというものを、そもそも自分にとってどういうものと位置付けるか」という、まるで世界が覚醒したような感覚でした。期末試験の点とか通信簿とかと別次元のことだったのです。当時、大村は、公立中学校を卒業してすぐに社会に出るような生徒もいる中で、みんながそれぞれの世界に散らばって生きていくときに、杖のようでもあり、伴走者のようでもあるものとしての「ことば」を手渡したかったのだと思います。学校を出たら助けてあげられないけれども、どうしようもないと思うときに、なんとかことばを自分に添わせながら考えを進め、人とやりとりし、新しい何かをつかんでいく。一生頼りにできる、応用が利くツールとしてのことばですね。
レゴのように、丈夫で多彩で豊富なことばたち
— 「OS」や「杖」としてのことば。極めて実践的な力ですね。
苅谷 私は幅広い人に「ことば」についての話をするとき、レゴブロックを例に出すことがあります。私の小学1年生の孫はレゴブロックが大好きなのですが、今のレゴって種類が非常に豊富ですよね。昔の単純な四角いものだけでなく、薄いものや斜めに角度があるもの、突起がいろいろな方向に出ているものなど、それは多彩です。十分な数のパーツを手に入れれば、頭の中で構築できるものなら何でも立体でつくれるという感覚を今のレゴビルダーは持っています。
一方で、100円ショップで売っているような安い材料のブロックもあります。あれはやはりゆがみがあって、せっかくつくってもジョイントが甘くてすぐに壊れてしまう。緩かったり、ゆがみが蓄積して曲がってしまったりと、結局当てにできません。ブロックの種類も限られています。
比喩になりますが、大村が手渡そうとした「ことば」は、この「精密に多彩に用意された豊富なレゴブロック」だったのではないかと思います。
そこで大事なのは、自分が持っているブロックを当事者としてきちんと把握していること。私の孫も、衣装ケースの中にブロックをざらざらと山ほども持っているんですが、よくそのケースに頭を突っ込んでかき分けて何やら熱心に探しています。「何をしているの?」と聞くと、「こういう形の、こういう色の、こういうレゴがあったはずなんだ。それがここにどうしても要るんだ」と言うのです。
ことばも全く同じです。話をしているときに、「確か今ちょうど言いたいことにぴったりのことばがあったはずだ」と自分の頭の中を探して、自分が言い表したいことを最もしっかり担ってくれることばを見つけ出す。そういう感覚で、自分の頭の中にいいことばのパーツをたくさん持って、しかも持ち主としてそれを確かに、細かに把握して、表現したいものを描いてみせる。そういう力と手応えを、大村は与えたかったのだと思います。語彙力というのは、単に「幾つことばを知っているか」ということではありません。選択式の問いになんとか答えられるという程度の語彙力では足りなくて、自分の中にしっかり根付いたことばを持っていなければ、使ったとしても浅い表層的な使い方しかできず、空回りしてしまうのです。
リレーのバトンを手渡すように、つないでいきたい
— 苅谷さんご自身は、その後、大学で国文学を専攻され、大村先生の仕事を支えることになります。
苅谷 私は15歳で中学を卒業するときに「大村教室のことを忘れないようにしよう」とはっきり思いました。ここで体験したことはめったに出会わない価値のあるものだろうから、とにかく忘れないようにと。そして、その体験を整理してみる視点を手に入れられるかなという気持ちで大学の国文科に進みました。国文科での勉強はそれなりに面白かったのですが、大村教室のことを言語化するまでには時間がかかりました。あまりに多層的で多彩で、ふつふつと湧き立つようなあの教室のことを冷静に捉えるのにはずいぶん時間がかかりました。
私が30歳になった頃に、大村は80歳になっていました。私と大村はちょうど50歳違います。大村の研究の助けが必要になったときに私がちょうど手が空いていたので、そこから大村が亡くなるまでの約20年間、一緒に過ごして大人バージョンの大村教室を味わうことができたのです。それはとても幸運なことでした。
大村は亡くなる前の5年間くらい、ちょっと機嫌が悪かったのですね。元気がなかった。なぜかというと、あれだけひたすら仕事をして確かな手応えを得て、多くの人に「大村教室はすごい」と評価もされた。しかし、その仕事は簡単には引き継がれないんだということが、はっきり見えてきた時期だったのです。
大村は、いい仕事だと言ってくれるのならば、みんなのものになるだろう、国語教育の一つの財産になってほしいと願っていました。自分の仕事の仲間であれば、それが大事だとわかれば同じようにできるはずだという思い込みがあったのです。それは同僚への敬意でもあったと思います。しかし、大村と同じ仕事は誰にもできなかった。晩年、自分の仕事が引き継がれるのは難しいことだと気付いたわけです。それはとても残念だし、悲しいことだったと思います。私もそばにいてそれは感じました。
引き継げない理由は、大村の仕事があまりに優れていたということが一番の理由でしょうが、いまの先生たちが多忙すぎることも大きいです。しかも多忙感の大きな部分を雑務が占めていて、それも子どものための雑務ではなく、保護者や世間からの攻撃を防ぐためのようなものが多いといいます。純粋に生徒のため、教える仕事のためにかけられる時間はわずかになっています。そうした問題もコンピュータやさまざまなデジタルツールを活用することで、整理していける可能性はあるのだろうと期待しています。先生は、生身の人間にしかできない「生徒と向き合うこと」に集中してほしいですね。
私は、大村が亡くなってからの20年も、諦めないで活動を続けてきました。大村の仕事を、駅伝のタスキのように、なんとか次の人につなげたい。リレーでランナーが次の人に渡そうとしてうまくいかないときに「誰か受け取って!」と必死でバトンを振り回すような、そんな思いで走り続けてきた感じです。
国語の「閉じた世界」とAI技術の加速度
— AIによる翻訳や文章生成が普及する中で、人間がことばを学ぶ意味、そして国語教育の果たすべき役割についてどうお考えですか。
苅谷 国語とは、本当に損な学科ですよね。あまり期待もされていないのです。例えば、放課後にピアノや英語、水泳を習う子どもは多くても、「国語を習いに行く」とはあまり聞きませんよね。母国語だから習わなくてもいつの間にか一定の力は付くし、読解の試験くらいは自分のことばの力でできてしまうから、要するに高を括っている。「今日は教科書〇〇ページから。じゃ、順番に一段落ずつ読んで」というようなルーティーンが知的な喜びになっておらず、テストに答えるために勉強する、テストが終わったら忘れる、というような循環の中にいて、ことばというものの本質に目が向くチャンスを失っています。
一方で、AIは恐るべきスピードで加速し進歩しています。テクノロジーに支えられた言語環境と人間とが同じ成長スピードを持っているとはとても思えませんよね。私たちはテクノロジーに遅れをとって慌てふためき、置いてきぼりにならないようにと必死で、自信も失くしている。目の前にはAIがパッと出してくれた、とりあえずよくできた「アウトプット」があり、「助かった」と思いつつ、これでいいのか、という不安がある。時間のかかる「ことばの世界の構築」などは非効率で、「そんなこと言っている場合ではない」と見なされている。そうして、教育の世界でも、ただ効率よく試験の長文読解に早く答えられるようにする訓練ばかりに偏ってしまう。ことばの本来の力を見失ったまま、「生成AIができて便利だ」と主体性を手放してしまう世界になるのは危険だと感じます。
しかし、テストのためという狭い効率の了見から外れてことばの世界を見ると、逆に自分をのぞき込むようでもあり、ことばという眼鏡を通して世界を見ることにもなり、本当に面白いのです。私たちが大村教室で得た言語感覚と、「ことばというのはこういうものだ」という認識は、大人になった今でも育ち続けています。自分とともに広がり続けているし、新しいことばを知ったときにまた角度が増えて熟し続けている感じがします。
国語教育の果たすべき役割とは、ただ効率よく正解を出すための訓練ではなく、自分の中にしっかりとした「ことばの世界」を構築できるよう手助けすることだと思います。効率とは無縁に思えるかもしれませんが、自分だけの言語感覚を育て、更新し続けていく。それこそが、教育が忘れてはならない役割ではないでしょうか。
エコーチェンバー現象と「ことばの分断」
— 大村先生は戦後まもなくから「自分の頭で考え、きちんと議論ができる市民を増やさなければならない」と理念を掲げていらっしゃいました。現在のネット社会やSNS全盛の時代では、ことばが軽んじられているようにも感じます。
苅谷 問題が山積しているのは、SNSなどでのことばのやりとりがまだまだ成熟していないからなのかなという気もします。そのスピード感に夢中になって、短いフレーズで時間をおかずにやりとりするのが良いとされるなど、余裕というもののない状態でことばを使っている。ことばを丁寧に受け止めるための時間、ことばを探す時間、選ぶ時間、待つ時間、あるいはいったん黙って考える時間など、そういう自然なコミュニケーションに必然的なペースというものをITの時代に取り戻すことが、これからの大事な課題になるのではないかとも感じます。ただ、発信するのも読むのも自分自身ですから、そうしたプロセスをコントロールする権利は個々人が持っているはずです。「よく考えてから発言しよう」という成熟の可能性は、まだ諦めなくてもいいのではないかと思います。
ただ、怖いのはエコーチェンバー現象です。自分と似た意見や思想を持った人たちの集まる空間内だけでコミュニケーションが進み、その意見がどんどん強化され、異質なものが排されて、自分の意見こそが正義だと信じ込む、自分の見たい世界がすべてだと思う。それは本当に怖いことです。選挙戦などでもそれは垣間見られますよね。アルゴリズムに支配されて、見せられている世界は、どのくらい本物なのか。その漠然とした怖さはなかなか拭い去ることはできません。多様な人と人が直に対峙することでしかつかめない実像というのがあるでしょう。だからこそ、生きた人間同士がほぼ毎日会って、同じ時間・空間を共有しながらやりとりをしている「学校」や「教室」の役割は、教育界が絶対に諦めてはいけないし、より良い教育をすべきだと思います。小手先のことでお茶を濁さずに、人と人とが伝え合う。それを実践したのが大村はまだと思っています。
— コミュニケーションに関して、広告や出版などメディアにぜひ考えてほしいことがあると伺いました。
苅谷 はい。「ことばによるコミュニケーションの分断」が深刻化しているということです。広告やマスメディアなど、いわゆる先端的な仕事に携わっている人たちが平気な顔をして使っている外来語やカタカナ用語は、本当の意味での「思考言語」として皆に共有されていないということ。つい先ほどキーワードにした“エコーチェンバー”などということばもそうですね。しっかりとみんなで考え合うためには、優れた翻訳語が必要だと私は思っていますが、カタカナの外来語のままでいい、とされているのが現状でしょう。そうなると置いてきぼりを食う人や、知ったかぶりをするしかない人が現れます。わかったつもりの人たちの間でも、実は確かに共有されていないことが多く、議論の土台が緩い。意地悪な言い方をすれば、確実な意味を伝える必要がないと思っているのではないかと勘ぐらざるを得ないくらいに、「先進的、先端的でしょ!」「なんとなくかっこいい」「これがわからないようじゃ、遅れている」「わかる人がわかればいい」というような調子で、根っこのないふわふわとしたことばが多用されています。
わからない人は「わからない」と言い出せません。本来はそうしたことばに「ノー」と言う権利があるはずなのに、時流に乗り遅れたような、自分が悪いような感じがして、「もうわからなくていいや」と諦めてしまっている層がかなりいます。ことばがことばであるための最低条件をクリアしないまま外来語が多用されている現状に、国語教育の立場からは大いに疑問を呈したいですし、「わかる人が一部でよいのですか?」「一見わかり合っていると思っているのでしょうが、本当に大丈夫なんですか?」と言いたいです。実際、ことばを理由に社会に分断が起きていると感じています。
日本語に外来語が無謀な勢いで大量に入り込んだことで、言語としてゆるゆるになっている状態、それは実は明治の文明開化の頃にも顕在化したことです。当時は外来語のままにはせず、翻訳語がたくさんつくられましたが、根っこのない、もらいものの生硬(せいこう)なことばが重要な概念とされたことで、根深い問題を抱えることになったと思います。そして今、多くの重要なキーワードが外来語のまま流通している日本語での議論の、気付かぬふりをして済ませているあいまいさや緩さ、コミュニケーションの分断は、国際社会の中で大いに弱点になるだろうと危惧しています。
実は大村はまは、50年も前に、中学3年生の授業で既に外来語を許容するかどうかを考える大きな単元を行っているのです。新聞や雑誌、電車の広告から外来語をたくさん集めてきて話し合いをしました。中学生たちが真剣に議論し、例えば「エレガント」は日本語の優美や雅などでは表せない概念だから許容できる、「グリーン車」はなぜわざわざそんな名前にしたのかなどと話し合いました。ほかにも、ある外来語について「雰囲気だけでよくて、受け取り手も雰囲気だけを受けとめている」「はっきりと言えないことをわざと外来語で言っている」などと、たいへん明確な議論をしています。自分たちの社会の言語をなんとなく流通させるのではなく、「ことばならことばとしての役目を果たすべきだ」とみんなが考えている、手ごわい中学生の教室だったのです。
ことばに“酸素”を取り戻し、「知の世界の魅力」を手渡す教育を
— これからのことばの教育とはどのようにあるべきなのでしょうか。
苅谷 知人を通じて聞いた話ですが、ロシアのモスクワの小学校で、算数の1時間目に大学の先生がやってきて「数の世界がどれほど面白いか」を新1年生に向けて語ったそうです。当然、数論の難しい議論などわかるはずもないのですが、子どもたちは何かそこに魅力的なものを受け取って、「数の世界へ冒険に出るんだ、面白そうだ」という気持ちになったと。大人とはそういう知の世界の魅力を語りたくて、手渡したくて、教育という制度をつくったのだと思うのです。なんとなく身に付くのとは違うレベルのものを大事に手渡し、一生を携えていく力になると信じて。
つい先日も、教員を含む大人向けに大村教室の手応えを味わってもらうワークショップを行いました。当時の中学3年生たちが取り組んだ「褒めことばの研究」というもので、褒めことばを集めてランク付けし、ことばの違いや温かさに気付くという内容です。これとこれを並べてみると違いは大きいなとか、このことばの手応えの温かさは、と気付く。自分の語感を再確認し、自分の価値観に改めて気付く。
たった30分のワークでしたが、とても盛り上がりました。「こんなふうにことばを虫眼鏡で見るように観察したことは人生で一度もなかった」という声も聞かれました。意味などとっくにわかったつもりで取り立てて眺めることもせずに使ってきたことばを、改めてテーブルに載せて、ある角度から光を当てたとき、頭の中に新たな世界が立ち上がる。日常の当たり前だったことばが高精細になり、「ことばの周辺の“酸素”が濃くなったような感じがした」、そんな感想も聞きました。ことばをめぐって考えることは、大人がやってもそんなふうに心躍るものなのです。ことばは自分と世界をつなぐ窓で、その窓から見える景色をつくづく眺めるようなことは楽しくないはずがない。
大村が手渡してくれたこういう言語感覚は、学校教育という閉じた世界のことではありません。国語の勉強は国語のテストのためにしているようなものではなく、ことばを介して世界を見つめ、人とつながるという、一生涯を通じて自らを支え、ともにあるものです。これからも、そのエッセンスを一人でも多くの子どもたちや大人たちに届けたいと思っています。現実的な状況も見据えながら、少しでも伝えられることを探り続けていきたいです。









