幸福を測り、社会課題の解決へつなぐ

鶴見 哲也

南山大学総合政策学部総合政策学科教授

2026年6月26日 11:00 Vol.96
   
鶴見 哲也
南山大学総合政策学部総合政策学科教授
Tetsuya Tsurumi
1981年東京生まれ。東京大学大学院新領域創成科学研究科(博士課程前期)、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科(博士課程後期)修了。博士(学術)。東京大学新領域創成科学研究科助教を経て現職。専門は環境経済学、幸福学。2018年環境経済・政策学会学術賞(奨励賞)受賞。主な著作に『幸福の測定─ウェルビーイングを理解する』(中央経済社)共同執筆のほか、経済発展と幸福度についての研究を『Journal of Environmental Economics and Management』『Ecological Economics』『Journal of Cleaner Production』『Journal of Happiness Studies』などの主要国際雑誌に多数掲載。

ウェルビーイングの計測は、統計技術の進歩とともに学術的な信頼性を高めているが、そのデータをさらに活用するためには、提示されたデータの背景にある問題を周知し、より良い社会づくりにつなげるためのフレームワーク確立が急務だ。“統計調査に基づく政策提案こそが社会課題の解決につながる”という信念を持ち、国を横断した幸福度調査を行う研究者にお話を伺った。text: Masashi Kubota photo: Hidetsugu Kawashima

なぜ、幸福度を「測る」必要があるのか

— 鶴見先生は2010年頃から10年以上にわたり、国内30万人、海外10万人という世界最大規模の幸福度に関するアンケート調査を続けていらっしゃいます。そもそも、こうした大規模な調査測定研究を始められたのは、どういう経緯からだったのでしょうか。

鶴見 私は大学入学時には理系学部に在籍しており、もともと環境問題に非常に強い興味がありました。最初はテクノロジーの面から環境問題の解決に貢献したいと考えていたのです。しかし、学部の指導教員を決める際に、環境経済学がご専門の馬奈木(まなぎ)俊介先生と出会ったことが大きな転機となりました。馬奈木先生から、技術だけでなく「政策」を通じて環境問題の改善に貢献する道があることを教わり、そこから環境経済学専攻に転じ、先生の下で研究を始めることになったのです。

当初の研究分野は「統計データを使って経済と環境の関係を見る」というものでした。過去の歴史をたどると、経済が発展するにつれて公害をはじめとする環境問題が世界各地で起きています。そこで、グラフの横軸に「1人あたりのGDP(経済発展)」を取り、縦軸に「環境への負荷」を取って、過去にさまざまな国がどれぐらい環境に負荷をかけながら経済発展してきたかを比較分析し、将来、発展途上国が経済成長していく過程でどのような環境負荷が発生するかを予測するほか、持続的な経済発展の方向性を見付けるといった主旨で研究を進めていました。

— そこから、現在ご専門とされている「ウェルビーイング(幸福度)」の研究へとシフトしていった背景には、どのような経緯があったのでしょうか。

鶴見 一言でいえば、「未来において環境政策をしっかりと進めるため」に幸福度の研究を始めたという側面がありました。環境問題の解決のためには、どうしても政策に訴えていく必要があります。税金を投入する政策分野は多種多様で、社会保障などには多額の税金が使われていますが、環境問題対策へ割く歳出は決して十分であるとはいえません。ある問題が政策上重要であることを納得してもらうためには、「その問題がほかの社会課題と比較して、相対的にどの程度重要であるか」を数値で説得する必要があります。漠然と「環境問題が重要だ」と訴えるだけでは印象論の域を出ず、政治や行政の人たちを動かすことはできないのです。私は、統計的な考え方と裏付けを持ったアプローチこそが、複雑な社会課題の解決につながるという強い信念を持って研究を続けてきました。

そんな折、大学院生時代に馬奈木先生から「経済成長をしていく中で、人々の幸福度がどう変化していくかを調べる研究分野がある」と教えられたのです。今度はグラフの縦軸に「幸福度」を取り、横軸に「経済発展」を取ってその関係を見るというものでした。

— 経済が発展すれば、国民は物質的に豊かになり、医療や社会保障も充実して幸福度も上がっていくイメージです。

鶴見 ところが、過去の膨大な研究によれば、実際にはそうなっていないのです。日本の場合、内閣府が「国民生活に関する世論調査」を戦後から継続的に実施していますが、その中で、生活に「満足している」「まあ満足している」と回答した人の割合(生活満足度)と1人あたりの実質GDPの関係を見ると、1958年から2010年までの間に日本の実質GDPはおよそ9倍に増えたにもかかわらず、生活満足度にはほとんど変化が見られません。アメリカなど他の先進国においても同様の調査結果があり、国全体の経済的な豊かさと国民の幸福度の間には明確な相関関係は見られません。この分野の研究ではアメリカの経済学者リチャード・イースタリンが有名で、この現象は“イースタリン・パラドックス”と呼ばれています。

要因としては、「幸福度は所得や健康状態などとは正の相関関係にあるが、労働時間の増加や環境破壊、通勤ラッシュの悪化などとは負の相関関係にある。経済発展につれて所得は増えても、労働環境の悪化や自然破壊によるマイナス要因によって幸福度が相殺されてしまうのだ」という分析が知られています。

これを知ったとき、私は非常に大きな感銘を受けました。人が心で感じている幸福度、すなわち「主観的ウェルビーイング」の指標は、経済合理性だけでなく、労働環境や環境問題なども含めて、社会の状況を包括的かつ相対的に捉える際の総合的な指標になり得ると気付いたからです。

具体的には、幸福度を数値化して指標とすることで、各政策が国民の幸福にどれほど寄与しているかを相対的に評価できるようになるのではないかと。例えば、「環境の向上が人々の幸福度に〇〇%の影響を与えるのであれば、環境関連の予算配分も〇〇%とすべきだ」といったように、政策の意義を経済面だけでなく総合的に評価し、割合として示すことが可能です。私は、この“主観的ウェルビーイング指標”を活用して政策の意義を多角的に評価し、数値という客観的な裏付けをもって、国民が納得できる形で歳出の根拠を説明する仕組みを構築したいと考えています。

   

   




科学的データによる社会課題の解決

— 実際に、そうした指標を政策に活用する動きは進んでいるのでしょうか。

鶴見 少しずつですが、手応えは感じています。最近では内閣府やデジタル庁でもウェルビーイングの測定を始めていますし、政権与党である自民党でもウェルビーイングに関心を深める動きがあります。「ウェルビーイング」という言葉が行政や政治の世界でも日常的に使われ始めるようになり、私たちの意見を聞いていただける機会は確実に増えています。

海外に目を向けると、この試みは既にイギリス政府で始まっています。「どの分野にどの額の予算を投入することが、国民のウェルビーイング向上に最も有効か」という視点から、予算配分の決定指標としてウェルビーイングを用いるという試みです。所得がウェルビーイングへ与える影響は統計的に算出できるので、例えば「所得が100万円上がるとウェルビーイングが0.1ポイント上がる」という関係があれば、「ウェルビーイング0.1ポイントには100万円分の価値がある」と換算できるわけです。実際には所得が上がるにつれて幸福度との相関は弱まっていくのですが、イギリスでは政治トップの決断により、あえてウェルビーイングと金額の関係を一律に決め、政策判断の基準として正式に採用し始めました。これは世界的に見ても非常に先進的で、大きな一歩だといえます。

日本でも行政が「どの政策が重要だと思いますか」というアンケートを実施することは昔からあります。しかし、単純に「この政策が重要だと答えた人が〇〇%いた」というだけでは、説得力に欠けます。そうした単純なアンケート調査には、統計的な「ノイズ」がたくさん含まれているからです。政策に反映してもらうためには何よりエビデンスが命ですから、私は統計学上有効と考えられる裏付けを大切にしながら研究を続け、学術的な説得力を極限まで高めていきたいと思っています。




“ビヨンドGDP”と“包括的富”という世界的な潮流

— 幸福度測定に関する研究についてお伺いします。世界的に主流とされる調査はあるのでしょうか。

鶴見 ウェルビーイング研究の中では、国連の持続可能な開発ソリューション・ネットワークが発行する『ワールド・ハピネス・レポート』が最も知られています。150程度の国や地域を対象にしており、「0の段が最も低く、10の段が最も高いはしごを想像してください。はしごの最も高いところは、あなたが考え得る最もよい生活を意味し、はしごの最も低いところは、あなたが考え得る最も悪い生活を意味しているとします。現在あなたはどの段にいると感じますか」といった主観的ウェルビーイングに関する質問の国別平均値とその決定要因について毎年報告しています。

— ウェルビーイングは場所や国により左右されるとも聞きます。

鶴見 国や場所による影響はとても大きく、また個々人が属する固有の文化も、幸福度に対して一定のインパクトを与えています。そのため幸福度アンケートでは文化により回答傾向に差が出てくるのが一般的です。「日本人の理想の幸福度は5段階の5ではなく4弱であり、そうした固有の考え方の影響で日本人の幸福度が低く出ている」という指摘もあります。

ただ統計学的な手法により、そうした固有の文化の影響を取り除いて分析することが可能です(*)。私が調査を行う際は、「ウェルビーイングを決定する世界共通の要因を知りたい」という動機から、文化の影響を極力取り除いた上で、「幸福度はどのような要素で決まってくるのか」という検証を続けてきました。

— 国や文化にとらわれない幸福度にはどんな決定要因があるのでしょうか。

鶴見 かつては「GDPイコール豊かさ(幸福度)」というのが国際的な常識でしたが、イースタリン・パラドックスの議論以降、経済問題以外の決定要因が探究されるようになり、豊かさ(幸福度)の認識は大きく変わりました。私の研究に非常に大きな影響を与えているのが、2008年に当時のフランスのサルコジ大統領が委員会を設立し提唱した“ビヨンドGDP(GDPを超えて)”の考え方と、国連環境計画が提唱している“包括的富(Inclusive Wealth)”という概念です。

“包括的富”とは、社会の目標とすべき豊かさの要素として、「人工資本(GDP等の経済的要素)」「人的資本(教育、健康、労働、人とのつながり)」「自然資本(自然環境)」の3つを挙げる考え方です。これらの要素が、場所や文化にとらわれず主観的ウェルビーイングの普遍的な決定要因になっていることが、私たちの調査からも確認されています。

   
幸福の測定―ウェルビーイングを理解する
鶴見哲也、藤井秀道、馬奈木俊介/中央経済社

鶴見哲也先生の研究グループは2014年から3年間、国内30万人を対象にしたアンケートを実施。その後も追跡調査を続けている。本書では、調査結果から導かれた幸せの決定要因を解説しながら、各地域に適した政策を提言した




日本の現在地と「働く幸せ」の重要性

— 日本の幸福度が昨年の55位から61位へ下がったという報道がありました。

鶴見 2026年3月発表の『ワールド・ハピネス・レポート』による調査結果ですね。ここで強調をしておきたい点があります。しばしば報道等で順位の細かい変動が議論されるのですが、統計的には55位と61位に有意差がありません。同報告書にも明確に示されています。さらに過去10年で統計的には順位に変化はほとんどありません。しかし、先進国最低水準で推移しているということは明確に指摘できます。

確かに日本のポジションは例年、先進国の中で最低水準にとどまっているのですが、その理由を日本人特有の文化的な背景(理想を少し低く見積もるなど)だけで片付けることはできません。私たちの調査からは、「日本人は他国の人々が幸福感を得ている要素において、十分に幸福感を得られていない」という深刻な課題が浮き彫りになっています。

特に問題なのは、「働くことによって得られるはずのプラスの幸福度」が日本は極端に少ないという点です。日本の若い世代におけるウェルビーイングを低下させている大きな要因の1つが、将来への経済的な不安です。これを払拭するためには日本の労働生産性を高めていく必要があります。その大前提となるのが「仕事へのエンゲージメント(熱意・没頭)」の向上です。「仕事へのエンゲージメント(熱意・没頭)」の向上は生産性の主たる決定要因であるだけでなく、主観的ウェルビーイングの主たる決定要因でもあります。

個人の労働生産性は何によって決定されるのか。多くの先行研究では、「仕事へのエンゲージメント」「職場の人間関係」「労働環境」「肯定的感情」の4点が主な要素とされています。中でも、何よりも根幹となるのが上述のエンゲージメントです。エンゲージメントが低いまま、いくら労働環境を改善したり長時間労働を是正したりしても、生産性は高まらないことがわかっています。「やる気のない学生」に夏休みという長期休暇を与えても、成績が上がるわけではないのと同じ理屈です。高エンゲージメントな従業員の割合は世界平均で約20%存在しているのに対し、日本の場合はわずか約7%と、最低水準にとどまっています。

— エンゲージメントを高めるためには、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。

鶴見 何よりも、働く本人がシンプルに「自分のやっている仕事が好きだ」と言える状況をつくることが重要です。仕事であれ勉強であれ、自分がやっていることが嫌だと思っていれば、絶対にエンゲージメントは高まりません。

そのためにはまず、いわゆる“ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)”、つまり「これをやっていることに果たして何の意味があるのだろう」と感じるような無駄な業務を徹底的に減らしていくべきでしょう。そして、今やっている仕事が自分の成長や自己実現につながり、自己効力感や自己肯定感、社会への貢献意識が得られると感じられることが大切です。

このブルシット・ジョブを減らすための切り札として、私は「生成AI」の積極的な導入が有効だと考えています。AIがやってくれそうな単調で反復的なタスクを人間が1日中やっているようでは、エンゲージメントは上がりません。働く人がAIの単なる補助として扱われるようなシステム設計は、疎外感や若手社員の“静かな退職(quiet quitting)”を生み出してしまいます。逆に、AIが単調な作業を引き受け、人間がより創造的で主体性を発揮できる業務へ移行することができれば、働く人のウェルビーイングは飛躍的に向上するはずです。

私が馬奈木先生と執筆した論文「地域の人的資本指数(RHCI)─新指標の提案(日本労働研究雑誌2026年6月号)」でも、新たな人的資本の定義を提案する中で、生成AIを含む知的ツールの導入が学習曲線を短縮させ(time-to-proficiency:習熟までの時間の短縮)、未熟練者が一人前になるまでの時間を早めることの重要性を指摘しています。AIは人間の仕事を奪う敵ではなく、人間が好きになれない仕事を代行し、働きがいを実現するためのツールとして使うべきなのです。

— 労働時間についてはいかがですか。昨今では「長時間労働をしたい人はできるようにしていくべきだ」といった意見もありますが。

鶴見 長時間労働は、平均的に見て大きくウェルビーイングを低下させます。私たちが実施した30万人アンケートの結果を見ると、共働きで子育てや介護を担っている状況であれば、「8時間」を超えると一気に幸福度が急落しました。ただし、仕事に注力できる独身時代、子どもが手を離れたライフステージ等、仕事に注力できる場合においてはその限りではありません。個々人が働き方を選択できる環境づくりが大切です。全体平均では労働時間が「平日10時間」を超えたところで一気に幸福度が下がりましたが、そのことは健康状態の悪化と関連性がありました。健康を害さない労働であるかどうか、についても注意が必要です。

また、「長時間労働をしなければ自分のやりたい仕事ができない」という職場環境なのであれば、結果的に仕事の幸福度を下げていくでしょう。「労働時間を増やしたい」と望む人は全体のわずか1割に過ぎないという調査結果もあります。それにもかかわらず、職場の人事評価や昇格基準に「長時間働いているかどうか」が暗黙のうちに含まれているようであれば大問題です。

「少しでも空き時間があれば仕事をする」というような仕事中毒(ワーカホリック)の状態では、長期間にわたって高い生産性を維持することは不可能ですし、いずれ健康を害したり、家族環境の変化に対応できなくなったりする恐れが生じやすい。「生産性向上のカギは、労働時間を増やすことではなく、減らすことにある」という研究蓄積は世界中にあります。もちろん、繁忙期があるなど部署によっては残業せざるを得ない実情もあるでしょうが、柔軟な部署間連携や、短時間労働を望む人によるワークシェアリングなど、各企業の状況に合わせた工夫をできるところから導入していくことが求められるでしょう。

   
鶴見先生がフィンランドの現地調査中に撮影した写真




世界で最も幸福な北欧に学ぶ「3つの要素」

— グローバルな幸福度調査で常にトップを占めるのが、フィンランドをはじめとする北欧諸国です。先生はフィンランドで現地調査も行われていますが、世界で最も幸福な国といわれる理由はどこにあるとお考えですか。

鶴見 フィンランドが高い幸福度を維持している理由は、以下の3要素をすべてカバーできている点にあります。第1に「労働生産性が高い」こと。第2に「仕事に対するエンゲージメントが高い」こと。第3に「仕事から完全に離れ、きちんと休暇を取っている」こと。

フィンランドは日本よりも労働生産性がはるかに高いのですが、その高い生産性を維持するためには「仕事から完全に離れて休息する時間」が不可欠だと多くの人が認識しています。職種や職場の状況によりますが、多くの労働者は平日は午後4時に仕事を終え、「つながらない権利」を尊重して週末はメールを完全にシャットアウトすることは有名です。夏には1カ月以上の長期休暇を取り、別荘で過ごすなどし、その間、仕事は一切しません。企業は長期休暇の時期を大学生のアルバイトでカバーし、その間のサービスの質の低下は社会全体が受け入れています。

   

— 日本人の休日の過ごし方と比べると、随分違いますね。

鶴見 日本の学生のアンケートを見ると、休日は暇を持て余してYouTubeやNetflixを長時間見ていることが多い。これは「自分が主体的に何をやりたいかがわからない」という課題の表れです。これに対し、私が南山大学で実施した学生のウェルビーイング調査では、非常に興味深い結果が出ました。ただ余暇が充実しているだけでなく、「授業へのエンゲージメント(熱意)が高く、かつ余暇も充実している」状態の学生が、最も高い学業成績(成果)を生むことがわかったのです。やる気がある人がちゃんと休むことにより、アウトプットが最大化される。これはフィンランドの生産性の高さのメカニズムが、日本の若者にもそのまま当てはまることを証明しています。




自然との親和性がウェルビーイングを高める

— フィンランドの現地調査で、ほかに日本との違いを感じたことはありましたか。

鶴見 最も日本と違う点であり、北欧のウェルビーイングを圧倒的に高めているのが「自然との親和性が極めて高い」という点です。フィンランドの人々は、自然との強いつながりを心から感じながら生活しています。例えば「家の隣の木が伐採されたとき、どう感じるか」という質問に対し、「自分の体が傷つけられたように感じる(痛みを感じる)」と答える人が非常に多いのです。

日本も国土の森林率はフィンランドと同水準であり、豊かな自然資本を持っているにもかかわらず、都市化の進行や触れ合いの喪失により、多くの人が自然から幸福を得られていない現状があります。日本には「自然享受権」のような、他人の私有地に入って自然の恵み(ベリーやキノコなど)を破壊せずに楽しむ権利や、それを支える互いの信頼関係がまだ成熟していません。都市公園でも遊具が撤去されたり、虫取りが禁止されたりして、自然と触れ合う機会が極端に減っています。これは非常にもったいないことです。

“Rural Happiness Paradox(田舎の幸福のパラドックス)”と呼ばれる研究があり、都会よりも地方のほうが幸福度は高いということを主張する研究が蓄積され始めています。この背景には、豊かな自然環境と、良好な社会関係資本(人々の良好なつながり)があるといわれています。

また、私たちの研究では、自宅周辺や職場における「身近な緑」の存在が、ストレス緩和に一定の効果を与え、日々の前向きな気持ちにつながって労働生産性や幸福度を高めることがわかっています。南山大学で行った調査でも、窓から緑が見える教室や、日本建築学会賞を受賞したレーモンド建築の学舎と緑豊かなキャンパスの自然環境が、学生の集中力やウェルビーイングの向上に寄与している可能性が示唆されています。

   
「南山大学のウェルビーイングをはかる」をテーマにおこなわれた授業風景
   
南山大学名古屋キャンパスは、建築家アントニン・レーモンドが設計。赤土色の校舎と豊かな緑が調和した自然あふれる環境で知られる




大切なのは、自分が情熱を持って時間を過ごせているか

— 最後に、鶴見先生ご自身にとって「ウェルビーイング」とは何であるとお考えですか。

鶴見 研究者としての私にとってのウェルビーイングとは、「社会をより良くしていくための客観的な評価指標」ですね。そして、個人としての私に極めて強い影響を与えているのが、行動経済学の創始者でありノーベル経済学賞を受賞した故ダニエル・カーネマン氏です。特に、心理学、経済学、行動経済学の視点から「経済発展がどうあるべきか」について深く語った彼の著書『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』(楽工社)からは多大な影響を受けました。

カーネマン氏が述べているように、ウェルビーイングの決定的な要因は「自分が情熱を持てる何かに対して、どれだけ時間を投資できるか」にあります。私自身も常に「今、自分が情熱を持って時間を過ごせているか」を自問自答しており、それこそが私自身のウェルビーイングの絶対的な指標です。私がこれまで行ってきたどんな研究データも、すべてこのカーネマンの言葉と矛盾なく整合します。

これから先、AIが定型的な仕事を代替していく社会において、人間に最も問われるのは「主体性」です。人間が主体性を持ち、自分の好きなことに情熱や活力を見出しながら時間を投資できる社会を実現していくことが、これからのAI時代において最も重要視されるべきではないでしょうか。自分の時間の過ごし方が好きだ、と誰もが心から思える社会。そのための科学的なエビデンスと、より良い社会を実現するためのヒントを提供し続けられるような研究を、これからも続けていきたいです。

   

(*注)統計的に取り除く手法として、例えば、以下のようなものが挙げられる。
①パネルデータ分析:同一対象を複数時点にわたって追跡調査し、時間的に変化しない個人の性格や文化的な回答バイアスを統計的に除去する手法。各回答者に固有のベースラインの差異を相殺することで、環境や状況の変化が幸福度に与える純粋な影響のみを抽出することを可能にする。
②アンカリング・ビネット法:全対象者に共通の架空シナリオを評価させることで、個人の回答尺度の歪みを定量化する。この固有の尺度を用いて自己評価を統計的に補正し、文化や個人の評価基準の差異を排除することで、純粋な幸福度水準の客観的な比較を可能にする。
③潜在変数モデル(IRT / MGCFA):複数の幸福度に関する質問項目の回答パターンを同時分析し、背後にある真の幸福度を抽出する手法。特定の集団や個人に固有の反応バイアスを統計的に特定・除外することで、表面的な解釈の違いに依存しない、本質的な水準の比較を実現する。

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