正解なき時代をともに生きる─「ケアの倫理」という処方箋

小川 公代

上智大学外国語学部英語学科教授

2026年9月26日 11:00 Vol.97
   
小川 公代
上智大学外国語学部英語学科教授
Kimiyo Ogawa
1972年和歌山県生まれ。上智大学外国語学部教授。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学博士課程修了(Ph.D.)。専門はロマン主義文学、および医学史。『ゆっくり歩く』(医学書院)、『ケアの倫理とエンパワメント』『ケアする惑星』(講談社)、『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)、『ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる』(岩波新書)、『100分de名著 ブラム・ストーカー ドラキュラ』(NHK出版)など著書多数。訳書に『エアスイミング』( シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、『メアリ・シェリー』(シャーロット・ゴードン著、白水社)など。共著に『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』(あさま社)がある。

個の自立を志向する社会の中で、見過ごされてきた「ケア」の営みとその倫理が、私たちが生き延びるために不可欠なものとして見直されつつある。古今東西の文学作品を読み解きながら「ケア」の重要性を発信し続けている英文学者、小川公代氏と一緒に、他者との関係性の中で揺れ動く「ケアの倫理」の豊かさを、文学作品とケアの実践を手掛かりにたどる。Text: Yumiko Kataoka Photo: Masahiro Heguri



正解なき時代をともに生きる─「ケアの倫理」という処方箋

— 近年、多様性や持続可能性が叫ばれる中で「ケア」および「ケアの倫理」への社会的関心が高まり、関連書籍の出版も相次いでいます。しかし一方で、日本では「ケア」という言葉が医療や介護など限定的な分野の話だと捉えられがちな側面もあるようです。

小川 そうですね。先日、受け持っている大学の講義で、“ケア”と聞いて何を思い浮かべるかと100人以上の学生に議論させたところ、出てきたのはおおむね医療や介護に関する事柄でした。しかし、中には「(自分が行っている)母親のメンタルケア」を挙げた学生がいたので、もしかすると家事を担うヤングケアラーなのかと思って「お母さんができない家事などのケアをされているのですか」と尋ねたら「いいえ、ケアと聞いて母の病のことを思い浮かべましたが、家事は母が全部やってくれています」と。なるほど、食事をつくったり洗濯したりといった営みは、あまりにも当たり前すぎて思い付かなかったんですね。家で行われるケア労働が多くの人々にとって「ケア」として認識されていないということに、驚かされました。

ケアは存在を守る、生命を守るという、非常に幅の広い領域を包括しています。ケアを必要としない人は誰もいません。にもかかわらず、経済活動を軸に近代社会がデザインされたことで、主に無償で行われてきたケア労働の価値が見過ごされてしまった側面が多分にあります。

2012年にスウェーデンで刊行された『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という書籍が、その後、数年かけて国際的なベストセラーになりました。著者である経済ジャーナリストのカトリーン・キラス=マルサルは、本書の中で独身を通したアダム・スミスが『国富論』などの大著を遺せたのは、母親が生涯、息子の面倒をみたからだと指摘しています。「見えざる手」で知られる近代経済学の父ですら、最も身近な「見えざる手」の向こう側にある「見えなくさせられたケア労働」について謝辞1つ記さず、21世紀になるまで誰もそれを疑問視しなかったのです。

— ケアは人間社会の根幹をなすものであるにもかかわらず、それが近年までなおざりにされてきたのですね。そんな中、なぜ今、「ケア」が見直されているのでしょうか。

小川 例えば現在、介護などケアの仕事に携わる人々の処遇の低さと人材不足が叫ばれていますよね。責任が大きく、肉体的にもハードな仕事なのに、労働市場におけるケアの価値が高くないのは、主に家庭という私的領域において無償で行われてきた営みと関連づけられてしまうため、公的領域においても「誰でもできるもの」と見なされてきてしまったからではないでしょうか。

ケア自体は決してネガティブな活動ではないので、「押しつけられた」という言い方だとその豊かさを見誤りますが、問題はケアがジェンダーと深く結び付き、主に女性の役割として当然視されてきたこと。家族愛や優しさといった感情論ではなく、社会に埋め込まれた男性中心主義的な価値観に気付いて、社会のデザインを捉え直さなければならない時代が到来していると思います。

ケアの価値を問い直す動きは近年世界中で広がり、出版も盛んです。日本では例えば、2000年から40冊以上を世に出し、毎日出版文化賞も受賞した医学書院の「シリーズ ケアをひらく」や、2021年に待望の日本語版が出たケア・コレクティヴによる『ケア宣言 相互依存の政治へ』があります。そして、アメリカの心理学者キャロル・ギリガンも2025年に京都賞を受賞されました。私もこの5、6年、自分の専門である文学の領域で、さまざまな作品を読み解きながら、ケアの価値を捉え直そうとしてきました。




抽象的な「正義の倫理」と、 個別具体的な「ケアの倫理」

— 改めて「ケアの倫理」とはどういうものか、そしてなぜそれが現代社会に必要とされているのか、詳しくご紹介いただけませんか。

小川 「ケアの倫理」とは、キャロル・ギリガンが、1982年の著書『In a Different Voice : Psychological Theory and Women's Development(邦題・もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理、川本隆史、山辺恵理子、米典子訳)』で、従来の発達心理学のモデル「正義の倫理」との相対化を図って提唱したものです。

「正義の倫理」とは、「一人ひとりが誰の手も借りずに自立し、社会のルールと個人の責任に基づいて判断できることこそが人間の成熟だ」とする考え方です。この場合、「正義」は抽象化されたものである場合が多く、また「正解」であるかのようにも見えてしまいがちです。

対して、自己と他者との関係性の中で人間がいかなる葛藤を感じ、そこからどのように行動するかを考えていくのが「ケアの倫理」です。「正義の倫理」が抽象的な概念で語られ、ときに弱者を「自己責任」として切り捨てる暴力性をはらむのに対し、「ケアの倫理」はその人がどんな人と関わり合いながら、双方向的に利する解を探り当てようとします。ただ、そうなると相手の立場や傷つきに対しても想像力を働かせなければなりません。自分も他者もどんな困難に陥っているかを、個別具体的に考えていくのが「ケアの倫理」です。

なぜ現代に必要なのかといえば、私たちの社会が新自由主義的な価値観に過剰に傾倒し、「経済的に自立し、自分の権利を主張できる“強者”」だけが評価されるようになってしまったからではないでしょうか。そしてその支配・被支配の関係は多層的です。例えば、専業主婦である母親が夫に対して弱者であり、不当に扱われていることがあるかもしれません。ただ、その母親がもしかすると子どもに対しては過干渉である場合があるかもしれません。脆弱な立場にいる人間が誰に対しても弱者であるというわけではありません。会社では、部下を指導する立場の上司も、かつては未経験者であり指導される立場だった人間です。「ケアの倫理」は、「いかなる人をも取り残さないようにするにはどのように生きればよいか」考える思想なのです。

例えば、国家がある政策を、あるいは学校の教員が校則を、そこに所属するすべての人の「正義」であるように語っていたとしても、一人ひとりの個別具体的な物語に寄り添ってみれば、まさにそのルールが誰かを苦しめているかもしれません。少しでも相手が抱える苦しみに寄り添い、ともに生きる可能性を探るという姿勢こそが、特に分断が深まる今の世界には不可欠なのだと思います。

   
In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development
キャロル・ギリガン/Harvard University Press
1982年刊行。従来の男性中心的な心理学や発達理論を批判し、女性の道徳的判断や人間関係のあり方に焦点を当てて「ケアの倫理」の基礎を提示。フェミニズムや現代の心理学に大きな影響を与えた。なお、本書の最初の邦訳は1986年に川島書店から刊行。2022年には『もうひとつの声で─心理学の理論とケアの倫理』という新たな邦題で、増補版の完訳が風行社から刊行された

— キャロル・ギリガン氏の主張は、社会の構造を根本から問い直すものでした。しかし、1982年に『もうひとつの声で』が発表された当時は、女性の自立を掲げるフェミニズムの内部からも強い批判を浴びたそうですね。

小川 はい。この本が出版された時期は、「第二波フェミニズム(1960年代後半から70年代にかけて欧米を中心に巻き起こった、女性を性役割などから解放し、社会的・経済的自立を目指す女性解放運動)」の全盛期でした。当時のフェミニズムは「正義の倫理」を志向していたため、ケアを重視する主張は、女性の自己犠牲を助長し、自ら落とし穴に入る行為に見えたのですね。

私自身、イギリスで政治・社会学を学んでいた1990年代に大学の授業でギリガンさんの著書を読みましたが、弱者たる女性たちが連帯する「ケア」や「共感」の価値を再評価する主張に心を揺さぶられながらも、すぐにはよくわからなかったんです。その頃の私は、一刻も早く親元を離れたくて日本を飛び出し、イギリスでフェミニズムの洗礼を受け、知の体系の中で自立すべく学んでいた時期であり、ケアと自立は両立しないと考えていたからです。



社会学・政治学から文学へ。物語が持つ「他者の生に寄り添う力」

— 小川さんは、最初は文学ではなく、イギリスで政治・社会学を専攻しておられたのですね。どのような出会いや体験が文学、特に文学を通して考える「ケアの倫理」の研究へとつながっていったのでしょうか。

小川 私はケンブリッジ大学の学部に入学したのですが、当時、後にブレア政権のブレーンとして活躍する社会学者のアンソニー・ギデンズ教授が教壇に立ち、マックス・ウェーバーを読み解く授業などを行っていました。授業はいつも立ち見の出る超満員で、最先端の政治につながる学びをリアルタイムで得ることができたのは幸運でした。

もちろん社会学や政治学はこの社会に不可欠な学問ですが、一方でどうしても抽象的な理論に集約されがちで、世の中をよくしていくためにその理論をいかに運用するか、そして日常生活で起こる問題について考える道筋が私には見えにくかったんです。また卒業論文で「日本における女性パートタイム労働者の実態」を調査した際、大多数の女性たちが、こちら側の予測に反して、家族の世話をするためにあえてパートタイムという形態を選んでいました。自己実現より、家族のケアを選ぶ女性があまりにも多いと知って、経済的自立が女性の当然の権利だと思っていた私は非常に困惑しました。

社会科学の方法論では、彼女たちが抱える葛藤にはたどり着けないように思いました。そこでヒントになったのもギリガンさんでした。彼女が『もうひとつの声で』という著作で「ケアの倫理」を解説するとき、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフだったり、チェーホフの『桜の園』に登場する元農奴で成功した実業家であるロパーヒンと零落した女地主ラネーフスカヤの対比だったりと、キャラクターがそれぞれの立場で思考し、行動する場面の例を挙げていました。それらはフィクションではありますが、キャラクターの経験に付随しているため抽象的ではなく、その一つひとつの個別具体的な物語を自分に引き寄せて考えることができたんです。キャラクターの人生を追体験するというのは物語(ナラティヴ)が持つ大きな力です。

また、それぞれの立ち位置からどちらが正しいかを主張し合いがちな政治学と異なり、人の想像力に分け入り、関係性そのものに着目する文学は複数の視点から物事を捉えます。この点もしっくりきて、研究の主軸を文学へと移行する決断をしました。

   
小川さんは6歳で1年半の米カリフォルニア留学、12歳で米ケンタッキーに単身渡米、高校2年でイギリス留学した。そして英ケンブリッジ大学に合格し、政治社会学を専攻。
写真はケンブリッジ時代、同級生とともに




文学作品がひらく「ケアの想像力」とアウトサイダーの視点

— 現在、20世紀のイギリス文学を代表するヴァージニア・ウルフなど、古今東西のさまざまな文学作品を読み解きながらケアの価値を発信していらっしゃいますね。

小川 ヴァージニア・ウルフも、「主婦たちが担ってきたこれほど重要なケアの活動がなぜ世間で認められないのか」と、長編エッセイ『三ギニー』で綴っています。女性や子ども、社会的弱者など権力の埒外におかれた人々を「アウトサイダー」とウルフは呼びますが、このアウトサイダーの立場こそが社会を変えていけるのではないかと私も思います。

ウルフは、従順で主体性を欠く「家庭の天使」を批判し、女性が自立するために経済力と「自分ひとりの部屋」が必要だと書いたことで知られます。しかし、ケアを低く見ていたわけではなく、代表作の『灯台へ』も『ダロウェイ夫人』も家庭の主婦を主人公にした作品で、命の重み、トラウマ、病に向き合うことなどを扱った、ケア思想に貫かれた作品です。ウルフは自立とケアという二極の間で揺れ動き、帝国主義にもつながる負の「男らしさ」を避けながら、物理的なケア労働の背後にある内面世界を包括しようとしました。

   
ケアの倫理とエンパワメント
小川公代/講談社
「ケアの倫理」の系譜をふまえつつ、ヴァージニア・ウルフなどの英文学、さらには三島由紀夫、多和田葉子、温又柔、平野啓一郎などの日本文学も読み解きながら、“ケアすること”の意味を探る。自立や自己決定を重んじる現代社会の強固な価値観を問い直し、他者との関わりを通じた連帯と共生の道筋を提示する

— ご著書の影響もあってか、ウルフへの注目は高まっていますね。最近の日本文学ではどんな作品に注目されていますか。

小川 ケアという文脈ならば、逆説的ですが、村田沙耶香さんの『地球星人』をおすすめします。主人公の奈月に信じられない出来事が目まぐるしく起こりますが、読んだ後に「日本はなんてケアが欠如した社会なんだ」と気付かされます。ちょっと立ち直れなくなるかもしれませんが、新しい目で日本社会を見つめられる作品なので、ぜひ読んでみてほしいです。小説は、人に何かを強制することは決してしません。どんなに恐ろしい世界を語っても、ひどい矛盾を鮮やかに描き出しても、加害性は限りなく低い。読者はそれを自由に解釈して、自分の生活に活かしていけばいいのです。



母の難病に直面して気付いた、関係性の倫理

— これまでのお話で、近代の社会構造の中で、ケアがいかに見過ごされてきたか、なぜ現代において「ケアの倫理」が必要とされているのか、そして「物語」を通じて理解を深める大切さがよくわかりました。一方、小川さんが、ご自身の人生においてケアに深く、かつ切実に向き合うようになったきっかけとして、お母様の介護があるそうですね。

小川 9年前、母がパーキンソン病という、手足などの震えが止まらなくなったり、歩くのが困難になったりと、段階的に運動機能が損なわれていく難病を診断されました。母は幼くして戦争を経験し、今でいうヤングケアラーとして弟妹の世話をし、結婚後は専業主婦として父を助け、姉と私を育て上げ、自分ではなく周りの人のケアにすべてを捧げてきました。そんな母が、今や他者に依存しないと生きられなくなってしまった。経済的に自立しておらず、自分の人生について自分の言葉で語れるわけでもありません。

娘の私はといえば大学に進学してから30年以上というもの、1本でも多くの論文を書くことに情熱を注ぎ、大学に職を得て、「自立した個人」として一心不乱に働いてきました。それが突然、真逆の生き方をしてきた病身の母と向き合うことになり、本当にどうすればいいのか途方に暮れました。

一方で、50年前にギリガンさんが可視化した「ケア実践」というものと母の活動が重なって見えたんです。母が人生を捧げて行ってきたこと、それに初めて「ケアの倫理」という言葉が与えられました。改めてものすごい革命だったんだなと実感しました。誰も取り残されない、誰も傷つけられない。そんなフェミニズムって最強ではないでしょうか。そして私自身もそういうフェミニズムを実践したいなと思えるようになったのです。




試行錯誤から生まれる「ケアの実践」と尊厳

— お母様との日々を綴られた著書『ゆっくり歩く』では、葛藤を抱えながらも困難を受け止め、文学作品をともに味わいながらお母様との関係性を深めるご様子が描かれていました。介護の実践において、「ケアの倫理」はどのように活かされているのでしょうか。

小川 「ケア・フォー(具体的に手を動かして世話をすること)」と「ケア・アバウト(そのためにお金を稼いでくるなど間接的に気にかけること)」という考えがあります。これはアメリカの政治学者ジョアン・トロントさんが紹介している概念です。私はもともと、女性でも経済的な自立だけが重要だと考える典型的な現代人なので、うっかりするとすぐ稼ぐことを重視する「ケア・アバウト」に傾いてしまう。そんな私が母と一緒に「ゆっくり歩く」ことに心血を注ぎ始めてわかったことがたくさんあります。

母は和歌山の実家に、私は東京に住んでいたので、数年は遠距離介護でした。しかし、ついに母が料理ができなくなったとき、東京に移り住むことになったのです。最初に入った東京のパーキンソン病患者のための専門の施設では、外出はリスクが高いということで部屋に隔離される日々で、母は牢獄のように感じて、3カ月で退去することになりました。その後、家族で話し合って、母はサービス付きマンションに引っ越しましたが、私が頻繁に通っても1人でいるときの不安や不便が勝ってくる。病状も変化してここもだんだん難しくなり、今は東京に来て、私の自宅近くの施設に入居し、私や甥をはじめ、頼れるコミュニティを少しずつ広げながら暮らしています。

私が強者として「これが最適」と決めることは簡単ですが、安全のためであっても「隔離する」ことはできればしたくありません。しかも、一方的な決定は母の尊厳を奪いかねません。「正義の倫理」が支配的な現代の社会は、自立した個と個が対立し、どちらかの正義が勝つ構造になっていますが、実際、何が善で何が悪なのかは関係性によって変わります。病気とともに身体も変わり、できていたことができなくなっていく中で、周りの人間ができることというのは、当事者の声に耳を傾けながら、尊厳が奪われない生き方とは何かをみんなで話し合っていくこと。そうやって決めていくしかない。

試行錯誤し、十分に対話をして、それぞれが納得していくプロセス。それこそがケアなのだと実感しています。

— ご自身がケアを実践しながら、「ケアの倫理」を体得されていったのですね。

小川 説明するとシンプルですが、実際は多くの要素が複雑に入り組んでいて、コストパフォーマンスとタイムパフォーマンスが非常に悪いのが実情です。それでもお金や効率に換えられないものがそこにはあります。

私たちが生きる近代の哲学的基盤には、エピステモロジー(認識論/the theory of knowledge)と呼ばれる、「客観的な知を外部から獲得すること」を重視する価値観があります。その延長に「正義の倫理」や新自由主義もあります。対して、1990年代以降に台頭してきたオントロジー(存在論/the theory of being)の思想では、「存在そのもの」に価値を置きます。ケアとは、相手の存在そのものを認め、自分の人生をかけてコミットしていく、まさにオントロジカルな営みです。もちろん「ケアの倫理」だけが大切なのではありません。自立か依存か、どちらかのモデルに収斂するほど人間は単純ではないですよね。自分の努力で成功を勝ち取る価値観があったからこそ、女性の私も大学に行けるようになったし、近代の正義を学んできたからこそ、そこからこぼれ落ちるケアを言語化できています。

ただ、経済的に自立した人だけが認められる社会では、母のように朝から晩までほかの人のケアに従事する人たちの声、マイノリティの声、難病に喘ぐ人たちの声は届きません。彼ら彼女らの多くは、葛藤を訴える手段や時間を持っていないし、代弁する政治家もほんとうに少ない。今の状況が続く限り、私は声を上げ続けていかなければと思っています。

   
ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる
小川公代/岩波新書
名作『フランケンシュタイン』で描かれた、怪物を生み出しながらも放逐した創造者と、つながりを渇望した怪物の悲劇を、“ケアの欠如”として捉える。そして、この物語を“ケアの倫理”“戦争”“レイシズム”“エコロジー”など10のテーマを通して多様な作品群と縫い合わせて考察。傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)や他者への依存を弱さと見なすのではなく、むしろ新たな力へと転換する可能性の提示に勇気づけられる



声を奪う「正義の政治」から、 
対話と妥協の「ミュニシパリズム」へ

— いまだ日本の政治では「もうひとつの声」が届きにくい状況にあるのでしょうか。

小川 世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数ランキングで、日本は148カ国中118位(2025年)と、政治・経済分野の改善が特に遅れています。女性首相が誕生したものの、衆議院における女性議員の割合は依然として10%前後にとどまっており、世界の平均の半分程度。地方政治ではさらに低く、特に40歳以下の若い女性議員の割合はわずか1%前後だといわれています。京都府八幡市の川田翔子市長が産休を取ることが海外メディアにまで取り上げられましたが、産休の枠組みが存在しなかったことが、ニュースになること自体、恥ずかしいことではないでしょうか。

そんな中、今年、私が住む東京都杉並区で岸本聡子区長が再選されて希望を感じています。ミュニシパリズム(地域主権主義:国に丸投げするのではなく、地域住民が主権を持ち合い自治を育てる考え方)を掲げ、いかなる人も関われる「対話の区政」を進める岸本区長は、「ケアする人をケアする」とも明言しています。ヨーロッパの政策研究所で長年働き、また母親でもある彼女は、正義の倫理とケアの倫理とのバランスの中で、「対話と妥協の政治」を体現しているように見えます。

—「ケアの倫理」が日本社会に浸透していくためには、何が必要でしょうか。

小川 ジェンダー・ギャップ指数で16年連続世界1位のアイスランドも、かつては男女格差が著しい国でしたが、1975年に行われたデモ「女性の休日」を契機に大きく変わりました。アイスランドの女性の9割が有償・無償の労働を一斉に休止し、家庭では父親たちが慣れないおむつ替えや料理に奔走し、ケアをようやく自分の問題にしたといいます。このようなショック療法を現代の日本で行うのは難しそうですが、「ケアの倫理」に親しむことは、ジェンダー二元論からの解放にもつながります。

私たちは、女性だけがケア実践の当事者であるというステレオタイプから解放されなければなりません。もちろん「イクメン」は一定数いるとは思いますが、誰もがケアに「共事者」として関わっていくビジョンを社会で共有できたらと思います。私自身は、社会を根本から変えるのは教育だと思って教員をしていますし、文学作品の中に豊富にある、個人と社会の両方が変容していくための紐帯として機能する文化をできる限り紹介していきたい。それが、生命を守るケアの価値につながればと願っています。

   




アートやビジネスが示す、資本主義とケアの共存の可能性

— 近年、ビジネスやエンターテインメント、アートといった多様な分野でケアへの関心が高まっています。行き過ぎた経済至上主義が限界を迎える中、資本主義とケアの倫理はどのように共存していくとお考えですか。

小川 展示や舞台などアートとケアとの相性のよさは、近年あちこちで感じています。映画やドラマ、漫画などエンターテインメントの世界でも、ケアは作品の重要なテーマになってきましたね。

『鬼滅の刃』『SPY×FAMILY』『怪獣8号』『BEASTARS』のようなアニメだけでなく、NHK連続テレビ小説『虎に翼』やNHKプレミアムドラマ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』なども、まさにケアをテーマにしていますね。

企業の研修に呼ばれてケアやジェンダーの話をすることも増えています。金融やコンサルティング、インフラ、レジャー業界までさまざまな企業が、自分たちの組織や企業活動に足りないのはケアなのではと気付き始めている。関心が高まる理由の1つは、コンプライアンスの問題です。ハラスメント防止に必要な態度は、人を傷つけない、人の尊厳を守るという、ケアの倫理そのままですから。

強者が弱者を従えるダーウィニズム的倫理観で成り立つ資本主義経済の中では許容されてきたハラスメントも、現代では倫理的に許されない。とすれば、弱者を押さえつけるのではないオルタナティブな価値観を創成して、それと共存するしかありません。ケアという領域は、行き過ぎた資本主義がはらむ問題系を網羅していますし、これからはますます「ケアの倫理」を欠いたままでは生き延びられない世界になっていく。資本主義とケアの倫理は共存可能だし、共存せざるを得ないと思います。

新自由主義的な社会では「自助」の思想と自己責任論が広く浸透していますが、格差が広がる中で、家庭や地域での自助や共助が機能せず、公助に頼るしかない状況も少なくないでしょう。政府には公助にもきちんと取り組んでもらいつつ、私たち自身がボトムアップで、相互ケアの価値観を共創していく必要があるのです。





権威への反骨心から「多孔的な自己(porous self)」へ

— ボトムアップで相互ケアの価値観を共創していくためには、私たちが孤立から抜け出し、他者に対して自分を開いていく姿勢が必要になりそうです。小川さんご自身は、どのようなご経験から、他者や社会に対して「開かれた」存在となっていったのでしょうか。

小川 振り返ると、他者に開かれる前に、いったん閉じる必然性があったようにも思います。幼い頃は、親や先生が絶対ですよね。私の両親は心から尊敬できる人たちでしたが、理不尽なことはたくさんあって、声を奪われる無力感は強烈でした。正しいことは人によって違うのに、なぜ親だというだけで正しさを押しつけてくるのかと、家父長制に対する批判意識はそれこそ7歳くらいから芽生えていて、近代的反骨心で殻を硬くしていた気がします。

そんな私が唯一誇れるものがあるとすれば、多くの他者に出会ってきたこと。父が和歌山で営んでいた英語塾の外国人講師たちと一つ屋根の下で生活し、小学生で母と姉と3人でアメリカに住み、高校からイギリスに留学し、結婚後は駐在妻の立場でマレーシアに住んだこともありました。硬い殻をつくって権威から逃れるように外の世界へ飛び出したわけですが、結果的に、未知の他者に出会うことができました。外へと向かったことがかえって「異質なもの」を自分の中へ受け入れるきっかけになったのです。

ケアの倫理に深く関わる概念として、自著『ケアの倫理とエンパワメント』でも紹介した「多孔的な自己(porous self)」は、カナダの政治哲学者チャールズ・テイラーが提示した2つの対照的な自己像の1つです。自己を壁で取り囲んで外部から分離する「緩衝材に覆われた自己(bufferd self)」のほうが近代以降は支配的ですが、これに対して「多孔的な自己」は、輪郭がより緩やかで、他者に開かれた自己像を意味します。分断が深まる今の世界で、他者の存在が流れ込んでくるような想像力のある、柔軟で風通しのいい「多孔的な自己」を意識することは大切だと思います。

   
古今東西の膨大な書籍が並ぶ仕事部屋。小川さんは書評分野でも活躍している。先日は小森陽一・成田龍一著『大江健三郎を読む─文学と歴史の複眼的視点から』(集英社新書)の書評を書くため、改めて『大江健三郎自選短篇』(岩波書店)を読み直したという




結論を急がず「今ここ」を味わうネガティブ・ケイパビリティ

— 最後に、ケアの倫理とも深く関わる「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念について教えてください。また、お母様との日々や介護のご経験を通じて気付かされたという、「弱さ」が持つ力についてお聞かせください。

小川 お話ししてきたように、人間とはやはり複雑なものです。私自身も、母に対して腹立たしいこともあれば、いつくしんでやまないこともあります。

「ネガティブ・ケイパビリティ」はもともと、19世紀のロマン派詩人ジョン・キーツが、シェイクスピア劇を観た後、弟に宛てた手紙に記した言葉です。「短気に事実や理由を手に入れようとはせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態の中に人がとどまることができるときに表れる能力」を意味しますが、「短気に」は原文の「irritable(イライラする)」という言葉に当たります。正解や結論がほしくて思わず手を伸ばしたくなる気持ちは、性急に「わかった」気になって互いに屹立してしまうSNSの状況にも当てはまると思いませんか。

私と母との関係を「正義の倫理」に照らせば、抑圧された少女時代を理由に復讐したり、縁を切ることだってあり得ます。でも人間は一枚岩ではない。ときに抑圧的だった母は、家族の健康を気遣った料理を毎日用意し、熱を出せば寝ずに看病してくれた母でもあり、母自身にも戦争体験や家族を失ったトラウマがあります。人間の個別具体的な営みは単純化できず、どちらが正しいと決めてしまうこともできません。新たな関係性を築けるかもしれないし、間違いを修正できる可能性もある。揺れ動きの中で、相手との関係性に信を持って、未来に期待するしかない。絶縁する理由なら100以上あるけれども、そこに待ったをかけるのがネガティブ・ケイパビリティなんです。あいだにとどまりながら、他者を傷つけず、自分も傷つかないように、ともに生きる可能性を探り続けていく力です。

感情が生々しく湧き上がってくるのは、相手の「弱さ」が見えたときで、やはり手を差し伸べずにはいられなくなる。こういう人間的な発露を経験できているのは、介護する機会をもらえているからこそ。母が病気になってしまったことは残念ですが、これによって母の弱さに触れて感情が揺さぶられ、ケアをしてあげたいと思えている。

『ゆっくり歩く』の表紙は、母と一緒に出掛けて急いで電車に乗ろうと歩いていたところ、車掌さんに笑顔で「ゆっくりでいいですよ」と言ってもらった場面です。母と電車に乗ると、母ばかりか私の分まで席を譲っていただくこともあります。「いえ、私は元気なので」と言っても「せっかくなので2人で仲良く座ってください」と返されたりして。人間の素晴らしさに触れる機会が、母といるからやってくる。日本の社会のケアのなさに絶望することも多いですが、個別具体的にはみんなケアのポテンシャルを秘めているのです。「弱さ」がそこに働き掛けて、思いやりや善なる行為を発動させる。弱くあることって、すごいですよね。

   
ゆっくり歩く (シリーズ ケアをひらく)
小川公代/医学書院
文学を通して「ケアの倫理」を論じてきた小川さんが、パーキンソン病の母親を介護する当事者として日々の記録を綴る。母に歩みを合わせる生活の中で徐々にケアを身体化していく個人的な実践と、ウルフやギリガンなどの知見が交差。弱さや老いとともに生きるための新たなケア論を提示する
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