私とあなたに橋を架ける、「贈与」と「利他」の哲学

近内 悠太

教育者、哲学研究者

2026年9月26日 11:00 Vol.97
   
近内 悠太
教育者、哲学研究者
Yuta Chikauchi
1985年神奈川県生まれ。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践。『世界は贈与でできている ―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)で山本七平賞奨励賞受賞。ほか著書に『利他・ケア・傷の倫理学―「私」を生き直すための哲学』(晶文社)『贈与を巡る旅―つながりと身体の倫理学』(PHP研究所)、共著『自由より自在に生きる―愉快さと葛藤の哲学』(フォレスト出版)がある。

選び抜いたプレゼントが「ありがた迷惑」と受け取られたり、よかれと思って言った言葉がときに相手を傷付けてしまったり。価値観が多様化し、大切なものが一人ひとり違う現代において、私たちの善意はしばしば空回りし、人々はすれ違う。この社会の中で私たちはどのように、他者との関係性を結び直していけるのか。「贈与」や「利他」、そして「ケア」の視点から論考を展開する哲学研究者・教育者の近内悠太さんと考える。
Text: Yumiko Kataoka Photo: Masahiro Heguri




誰もが贈与を受け取っている

— 2020年に初のご著書『世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』を、2024年に『利他・ケア・傷の倫理学―「私」を生き直すための哲学』を上梓されました。『世界は贈与でできている』では、誰もが必要としているがお金では買えないものとその移動を「贈与」と称してその原理を考察されていますが、与える側ではなく、受け取る側を主眼に論じられた点が新鮮でした。近内さんご自身が、「受け取っている」と意識するのはどんなときですか。

近内 日々、あらゆるときに。例えば、麻酔の存在とか。歯医者に行けば「150年前でなくて本当によかった」と痛感します。麻酔が医療技術として普及したのは大昔のことではありません。歯の神経はとても鋭敏なので、歯を削ったり抜いたりすることは、昔は拷問の一種でもありました。麻酔が使える現代ではどんなに削っても痛くないし、清潔にしてから詰め物をしてといった手順も確立されている。医療技術は日々進歩しているので、10年、20年前と比べてもよい治療が受けられます。

あるいは、衣服もそうですね。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』には、軍隊の上層部が、極寒地域での戦闘に備えて羊毛の確保に腐心している話がちらっと出てきます。戦争では弾薬や食糧や医薬品の供給だけではなくて、衣類についても原料から調達する必要があったわけです。そんな話を読んだ後に例えばユニクロに行くと、軽くて暖かい機能素材の衣服が山ほど売られていて、変な世界に迷い込んでしまった気分になります。たった数十年前は、衣料品も貴重なものだったわけです。

また、ドラッグストアにも、シャンプーだけでこんなに種類があるのかと、びっくりする。資本主義や市場経済の暴走ともいえますが、香りや機能の微々たる違いでこんなにも多くの商品があるのかと。選べることは1つの自由だし、人類が獲得してきたことです。エコかどうかは括弧に入れて。

このどれもが、生まれる時代が違っていたら僕のもとへは届かなかった。僕たちは、先人たちから確実に、偶然に、あまりにも多くのものを受け取ってきているんです。生まれて最初に学ぶ言語も、教育も贈与です。航空機が安全に飛ぶのも、日本の建物が地震に強いのも、数え切れない事故や災害を経て、失敗からの学びを技術や制度やガイドラインの形で残してくれた人たちがいたからですよね。

— 普通に生活していること自体が贈与の受け取りで、お返しすることはできない。確かに貨幣経済やギブ&テイクの「交換」とは違いますね。最初の本のテーマを「贈与」にしたのはどうしてですか。

近内 人間にとって最も大きなテーマだと考えたからです。人間の営みを煎じ詰めて、1つだけ取り出したら「贈与」なのではないかと。「贈与」というキーワードで、文明とは何かとか、人間とは、世界とはどういうものかを論じたら、その後、さまざまな各論を展開できるのではないかという予感もありました。「贈与」という言葉には、思想家・武道家の内田樹さんの本で出会いました。内田さんとは対談して本を出していますが、2人の「贈与観」は少し違います。内田さんは、社会を回すために必要なメカニズムとして贈与を位置付けますが、僕はもう少しウエットなものとして捉えている。『世界は贈与でできている』を「哲学でも経済でもなく、愛の本だった」と評してくれた読者がいましたが、人が人を思う、何かを残すということを広くいえば、愛なのかもしれません。

—「親が子を育てるのも一方的な贈与」とご著書にありました。そして「私は不当に受け取ってしまった」と気付くことが、次にパスを出すきっかけになると。どうしたらうまくパスを回せるのでしょう。

近内 パスするときは、相手が受け取り手であることを信じるだけなんですよ。やり方に迷ったら、自分に贈与をしてくれた人の身振りを真似るといいと思います。武道や芸事みたいに、師匠の身振りをインストールする。例えば僕は、以前、誕生日に仲間から花束をもらったとき、すごくうれしくて、これでゲームでいう「実績解除」ができたと感じた。その人の身振りを真似るという形で、花束を人にあげられる身体になったと感じました。「君のためにお花を買ったんだ」では重たいし、「君が喜んでくれたら僕が幸せになれる」では交換、もはや買収になってしまう。「旅行に行ってきたからお土産あげるよ」「僕に花束をくれた人がこうしていたから」みたいなエクスキューズが、重さを消してくれるんです。

一番素敵な贈与は、あげたほうが意識していない場合かもしれません。例えば、久々に会った後輩に「2年前の飲み会でこう言ってくれましたよね。おかげで私、これでいいんだと思えて、転職したんです」なんて言われて、こっちは「はて、言ったかな、そんなこと」と全然覚えていなかったりして(笑)。「私はあなたからこれを受け取りました」と宣言する主体が現れることによって、人は初めて贈与者に変わるんです。

『世界は贈与でできている』を通して、贈り合うことよりも、受け取り合うことが大事だと伝えたはずなのですが、うっかり「パスする」と書いてしまったせいで、皆さんそちらが気になるのか、「どうすればパスをうまくできますか」と何度となく聞かれました。それで、与える側の話をということで書いたのが『利他・ケア・傷の倫理学』です。

   
世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学
近内悠太/NewsPicksパブリッシング
資本主義社会において「お金で買えないもの=贈与」が果たしている役割とは何か?「人間」と「社会」の意外な本質を、みずみずしく平易な文体で綴った近内さん初の著書。2020年、山本七平賞(奨励賞)受賞

—「贈与」から、2冊目で「ケア」へと展開されたのは、そういう経緯だったのですね。

近内 「受け取る」に対して、「与える、届ける」観点を考えるときに、「贈与する」という言葉は嫌でしたが、「ケアする」なら違和感がありませんでした。ちょうど2020年に、美学者の伊藤亜紗さんや政治学者の中島岳志さんらの「利他プロジェクト」が東京工業大学(現・東京科学大学)で始まったこともあって、「利他」について新鮮に考える機会があり、ケアとつながっていると感じたんです。




ケアとは、他者の大切にしているものをともに大切にする営為の全体

—「ケア」について、近内さんの定義をご紹介ください。

近内 すごくシンプルで、ケアとは、「その他者の大切にしているものをともに大切にする営為全体のこと」だと思います。

— ケアというと医療や介護の話かと思われがちですが、この定義はそんな固定観念をときほぐし、視野を広げてくれます。営為の「全体」という表現にも膝を打ちました。

近内 そうなんです。「おはよう」という挨拶も、飲み会に来なかった友だちに「どうしたの?」と声を掛けるのも、ケアになる可能性が多分にある。ケアについては最近、いろんな議論が出ていますが、大きく2つのジャンルに分かれてしまっていますよね。1つは医療・介護の領域、もう1つは家事や子育てといったケア労働の領域。後者は、主に女性に負荷がかかってきたという歴史的分析・反省を踏まえたジェンダー論でもあります。ですが、ケアはこの2領域に限らず、もっと大きな範囲をとってもいいと僕は思います。電車の中でも、教室でも、仕事でも、ありとあらゆる現場で起こるものをトータルでケアと呼びたくて、「その人の大切にしているものを、ともに大切にする営為全体」という言い方をしました。

   
利他・ケア・傷の倫理学 ―「私」を生き直すための哲学
近内悠太/晶文社
多様性の時代において、善意を空転させることもなく、人を傷つけることもなく、生きていくにはどうしたらよいのか? 進化生物学、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」、遠藤周作、深沢七郎、サン=テグジュペリ、村上春樹など、さまざまな文学作品をもとに利他、そしてケアの本質を哲学的に考察

— この本には、日常的な言葉や行為で他者に寄り添うケアの風景が、古典からSF小説、『ONE PIECE』『暗殺教室』のような漫画まで多様な作品を引用しつつ、登場しますね。

近内 与える「ケア」も、受け取る「贈与」も、「私とあなた」のあいだに起こるものとして書きたかったのです。例えば、『変身』で知られる作家フランツ・カフカが行った、物語によるケア。公園でひとりの少女が「お人形を失くした」と泣いていたので、カフカはとっさに「君のお人形はね、ちょっと旅行に出ただけなんだ。ほんとうだよ、おじさんに手紙を送ってくれたんだ」と語り始めます。それから3週間にわたって、カフカは毎日、「人形からの手紙」を書いては少女に届ける。「人形を失くしてしまった」という物語を、「人形が旅に出て、そこで幸せに暮らした」という物語だったことにしたのです。

嘘といえば嘘ですが、失われた大切なものと正しくさよならができるための関わりであり、文学者ならではのケア、言葉を持つ我々だからできるケアではないでしょうか。科学やテクノロジーは人間の悲哀を未然に防ぐことはできても、起こってしまった悲哀をケアすることはできません。僕たちは物語によって救われるし、物語によって傷付くこともある。

— そうすると、よかれと思って差し出したものや、ケアするつもりで言った言葉が、ときにその人を傷付けてしまった場合は……。

近内 その人が大切にしているものを見誤ったということになります。ケアするためには、その人が大切にしているものを把握する必要がありますが、この多様性の時代、それはとても難しいことでもあります。




利他とは相手を変えようとするのではなく、自分が変わること

— では、「利他」のほうはどうでしょうか。

近内 本書では、利他を「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているもののほうを優先すること」といったん定義した上で論考を進め、「利他とは相手を変えようとするのではなく、自分が変わること」という主張へとたどり着きます。他者をケアしようとする中で、思いがけず自己変容が起こる。大切だと思っていたものがそうでなくなったり、逆に、取るに足りないと思っていたものが実は大切だったことに気付いたりして、自分の中の大切なもののランキングが入れ替わる。あるいは、「自分にはこんなことができたんだ」といった発見が起こる。そんな「自己変容」という条件を加えると、利他とは「自分の大切にしているものがあるにもかかわらず、他者に導かれて、その大切なものを手放すこと」と展開できます。伊藤亜紗さんも「よき利他には必ず『自分が変わること』が含まれている」とおっしゃっていますね。

— 自分が変わらないままで大切なものを手放してしまうと「自己犠牲」に陥ってしまいますが、囚われていた枠組みから自由になる「自己変容」は、結果的にセルフケアになる、というのは目から鱗でした。しかし、多様性の時代なのだから相手の価値観を受け入れなければ、と苦しむ人も少なくないのでは。ケアを「心ある行為」にするための、無理のない考え方はできるのでしょうか。

近内 受け入れるのが難しい相手とは、無理して一緒にいないほうがいいと思います(笑)。自分の身体が自然と動かない状況で手を差し伸べても、ろくなケアにならない。むしろその人のケアが必要だと思います。家庭内のトラブルだとしたら、一定程度、あるいはなんらかの形で行政が介入するということもできるはずです。福祉の仕組みはそのためにあります。ケアは日常ですが、自己変容に至る利他は、一生に1回や2回しか起こらないかもしれない、劇的なものだと思います。相手の価値観や大切なことを優先する中から、結果的に自分が変わってしまったときに、それは利他だったであって、利他しようとしてするものではない。思い返すと、僕は1冊目の贈与論からずっと、「いかにエゴから離れるか」考えているのかもしれません。アイデンティティや自分の大切にしているものにこだわりすぎるのは、現代の「一貫性の病」だと思います。

—「信念を貫く矛盾のない自分」である必要はないと。

近内 5年前の自分とは、話す内容も、表情も、身振りも今と全然違うはずなのに、パスポートが10年も自分を証明するなんて、なんだか暴力的だなと感じなくもないです。贈与やケア、利他について話したり書いたりしている論者たちはしばしば、「思わずやってしまった」とか「何かが私の中を通り抜けていった」といった表現をします。「私がする」という言い方はそぐわない。進化生物学的には不思議なことに、人間はなぜか、勝手に身体が動いて、よき行いができる。

ゴリラなどを対象にした霊長類研究をなさっている山極壽一さんは、人間は協力しないと生きていけない存在で、放っておいても協力できるといいますが、本当にそう思います。社会制度は、人間がろくでもないことをしないように設計されていますが、人間がそれほど邪悪な存在なら、とっくに種として滅びているはず。ホモ・サピエンスは未熟な状態で生まれてきて、協力しないと死ぬんですから。

ただ、現代の都市や社会はあまりにも巨大です。知り合いの前で万引きしたり、20、30人の集落で悪いことをしなくても、匿名性の高い社会では、「自分だけズルして得したい」という人間の悪い部分が爆発する。そこでは当然、さまざまなルールや仕組み、法律や規制、社会保障も必要です。しかし、現代でも、小さなコミュニティや「あなたと私」の距離感であれば、贈与もケアも利他も、できると思っています。

—『利他・ケア・傷の倫理学』に、「傷」を入れた理由は?

近内 相手の傷および、私の傷がなかったら、ケアも利他も起こらない、根本的な原理原則だからです。『星の王子さま』にあるように「大切なものは目に見えない」けれど、傷や、傷の予感は目に見えます。会話をしていてふと相手の表情が曇ったときは、傷付けてしまったか、傷付けそうになったということですよね。コミュニケーションの中で、その人の大切にしているものに無断で踏み込んでしまったことが露呈する。「地雷を踏んだ」というやつです。傷という基盤がないと、ケアも利他も000と事後的にいえるの単なる心がけの話になってしまいますが、その人の傷が見えたとき、その向こう側に、大切にされなかった何か、あるいは、その人自身が大切にできなかった何かが見え隠れするはず。傷とは、「ここに何かあるよ」とマップに刺されたピンのようなものです。



数学から哲学へ

— 近内さんは哲学を研究される以前に、大学の理工学部で数学を専攻されていたと知って驚きました。なぜ数学だったのですか?

近内 高校生のときに、数学、物理、哲学の3つで迷って相談した先生が「まずは数学ではないですかね」と言ってくれたんです。素敵ですよね、「まずは」と。知的な営みは大学の4年間で終わるわけではない。担任ではなく、3つのどれでもない現代社会や地理の授業を2年ほど受け持ってもらっただけのつながりでしたが、この人なら答えをくれるはずだと直感したんです。授業の後に、毎回のように話しに行っていたからか「昔は君みたいな生徒、いっぱいいたんだけどね」とポロッと言われたことや、そのときの先生の表情をよく覚えています。

   

— その先生をそれほど信頼されていたのは、なぜですか。

近内 眼差しとしか言いようがないけれど、ほかの大人が見ていないものを見ているように感じていましたね。僕らを違うところへ連れて行ってくれるような。信頼できる大人かどうか、俗物かそうじゃないか、子どもにはすぐわかります。そんなわけで、まずは数学を専攻しましたが、野矢茂樹先生の本でウィトゲンシュタインに出会って「これだ!」と感じました。僕が小学生の頃から抱いていた疑問はこれだったんだ、同じ疑問を論じてくれていた人がいたんだと興奮しました。— 具体的には、どんな部分に共感されたのでしょう。

   
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
20世紀を代表するオーストリア出身の哲学者。主著『論理哲学論考』(1921)では、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」として、言語と世界の論理的な限界を示した。後に小学校教師などを経て哲学へ復帰。遺作となった後期の『哲学探究』(1953)では「言語ゲーム」の概念を提唱。その言語と論理の哲学は、後の現代哲学、科学、文学、芸術、さらに現在のコンピューターの誕生にも大きな影響を与えた

— 具体的には、どんな部分に共感されたのでしょう。

近内 例えば「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームは既に確実性を前提としている」(『確実性の問題/断片 ウィトゲンシュタイン全集9』より)という言葉。原因の原因は、その原因は……とさかのぼっていったらどこまでいっても納得できないし、その先を考えることができないでしょう。でも、動かない蝶番のようなものを設定すれば、そのドアを開けることができる。僕、小学校や中学校の頃、理科に納得できなかったんです。現象の説明はあっても、原理原則にたどり着いたと思えなかったから。先生に「なんで?」「じゃあそれはなんで?」と何度か食い下がると、「それはテストに出ないから考えなくていいよ」と言われて「理科キライ」となってしまって。テストで点は取れるが、納得はしていない、と。

それが、大学受験の予備校で大学レベルの物理学を勉強したら、ニュートンの3法則について、「これらが『なぜ』成り立つのかはさかのぼれないけれども、今のところ、マクロな領域の物理学では反証が起こっていないし、この3つを仮定することで他のいろいろな法則が導き出せる。でも、明日これが覆される可能性だって多分にある」と先生が説明してくれて「あ、そういう枠組みなら納得」と腑に落ちた。ウィトゲンシュタインが言う「これを疑っても意味がない」ということと、自分がそれまで感じてきたものがリンクしたんです。



知的な「向こう側」を指し示す、先生の身振り

— それで大学院で哲学を専攻されたのですね。その後は現在に至るまで、塾などで中学生・高校生に教える仕事をされているとお聞きしました。

近内 はい。最初は数学を教えていましたが、いまは現代文という名目で、言葉を使えば何でもありの授業をしています。お話ししながら気付きましたが、僕は「先生」というものに憧れがあったというか、かっこいいなと思ってきたのかもしれません。知的な「向こう側」があるんだよと、その場で伝えてくれた人たちの身振りを、ずっと真似てきたような気がします。

僕がやりたいのは、研究者として専門書を書くことではなくて、専門書の「第0章」、イントロダクションみたいなものを書くことなんです。贈与といえば文化人類学者マルセル・モースの贈与論が有名ですが、この本ではあえて引用しませんでした。文化人類学的な説明が多くなり、いきなりそのような話をしても最後まで読んでくれないんじゃないかと思ったので。

でも、この本を読んだ人は、モースの議論も理解できるはずです。そんなふうに、「贈与」や、「利他」や「ケア」というキーワードが気になる人が最初に読む本になったらいいなと。教育って「向こう側があるんだよ」と、指をさして見せることだと思うんです。

— 哲学だけでなく進化生物学からさまざまな文学作品、漫画までいろんな作品から引用されるのも刺激的でした。

近内 授業でも、手を替え品を替えてしゃべらないと、生徒たちはすぐ寝るもので(笑)。彼らに届くかどうかは、チャンネルのチューニングというか、自分のトレーニングになっているんですよね。教育活動をやらないと、僕の中の何かが腐ってしまうから、循環させて水をきれいにしておこうと。子どもたちに話すのは、大人相手より難しいんですよ。「知らんけど」という顔の子たちに向けて50分間、寝かさずに、目をキラキラさせてもらえるか、「紹介していた本、読んでみようかな」なんて思ってもらえるかが僕の現場というか、「臨床」の場です。

— 日々、子どもたちと接する場が、「臨床」なのですね。

近内 臨床という言葉、好きなんですよ。医療やカウンセリングだけでなく、教育も一つの臨床だと思うし、家庭もそうかもしれませんね。現場ではいろいろ起こって計画どおりきれいにいかないし、「こうあるべきだ」が通用しません。生の世界でいかに人間的に振る舞い、パフォーマンスを発揮できるか。「臨床」を持っている人の言葉は、やわらかいけれど遠くまで響く。だから多くの人に届くんじゃないかと思います。

— 哲学というと人間の営みを抽象化、構造化する学問のようですが、教育という「臨床」の場を生きながら、名前を持つ「あなた」と「私」のあいだで起こることを書いているから、近内さんの言葉は説得力を持つのかもしれませんね。

近内 相手に「興味を持たせる」のはおこがましいので、「お前ら、これ面白いだろ」と投げつけるのではなく、「僕は面白いと思うんだけど、どう?」みたいな、対等な関係性が大事だなと思います。何を教えるか以上に、どのような眼差しで、言葉で、身振りで生徒たちの前に立つか。受け取ってくれたらいいなとは願いますが、「一生懸命授業をするので、一緒に授業をつくろうぜ」という気持ちでやっています。




文明とは世界の傷付きやすさのこと

— ケアや利他という営みの宛先が、特定の個人でなく、複数の人々や、あるいは都市、自然環境などでもありうるのでしょうか。「文明とは世界の傷付きやすさのこと」とも書いていらっしゃいましたが、私たちの生活は、先人たちの贈与の上に成立し、そして出会うことのない無数の他者によるケアによって安定しています。お店には商品がいつも並ぶし、電車は1分も遅れず運行する。こうした奇跡にも、2冊のご著書を読みながら、改めて気付かされました。

近内 実は、『世界は贈与でできている』は、3・11東日本大震災という出来事に対する僕なりの回答でもありました。あの日、僕は都内にいて、電車が止まって神奈川の実家に帰れなくなったくらいで、特段、被害にあったわけではないですが、「こんなに簡単に都市文明がぶっ壊れるなんて、誰も教えてくれなかった」と愕然としました。僕らは知らずに受け取っていて、それはとても壊れやすいことに気付かなければ—これが本書を書くモチベーションになりました。

本書でも紹介しましたが、私たちの世界は当たり前ではなく、すぐ隣にまったく別の世界があり得ることを、SF作家たちの眼差しは教えてくれます。例えば小松左京の『こちらニッポン…』や『日本沈没』。小松自身は社会に対する危機感や怒りがあったそうですが、「当たり前だと思うなよ」というメッセージを、説教ではなくエンタテインメントで伝えてくれている。途方もない物語を通じて日常を相対化し、また、根源的な問いかけが日常化されるのが、SFのすごいところです。災害ものの映画や小説やドラマは、定期的に摂取したほうがいいですよ。社会はそうそう変わらないなどと思いこまずに、驚く力が大切です。

— フィクションだからこそ感じられる肌触りや戦慄もありますね。自然環境に対するケア的思考も可能でしょうか。

近内 自然に対するケアとは、その自然が「なりたがっているかたち」に応答することではないでしょうか。風が吹くのも、化学物質が爆発するのも、あらゆる自然現象は、不安定な状態から安定的な状態への遷移として起こります。昔の人は、山や川を擬人化したり、そこに神様が宿っていると考えたりして、自分たち人間とは違う摂理で動く自然とつきあってきたわけですよね。日本の文化にはそんな多神教的、アニミズム的な背景があるので、西洋的、一神教的な背景を持つ人たちよりも、自然へのケア的思考がしやすいのではないでしょうか。

文化人類学者の奥野克巳さんが、『入門講義 アニミズム』(平凡社)で、アニミズムとは特定の宗教形態ではなく「人間だけがこの地球の主人ではない」という発想であり世界観だ、その点で「人間は地球のよき主人であるべき」というSDGsの発想とは全然違うと書いておられました。アニミズムという領域は、贈与とも根っこでつながっているので、さらに勉強してみたいと思っています。贈与とは、モノに人格が宿る現象でもありますよね。大谷翔平に「これ余っているので、よかったらどうぞ」とペットボトルの水をもらったら、大事に持って帰って誰にも触らせませんよね(笑)、思い出や人格が宿ったモノはただのモノではなくなり、「お返ししなくては」とか、「捨てられない」という事態も発生する。

   
こちらニッポン…
小松左京/ハルキ文庫
1976年から1年間『朝日新聞』夕刊に連載された長編SF小説。社会を支える人々が突如消え去り、インフラが徐々に崩壊していく日本の大都市を舞台に、残された人々が直面する危機と海外移住への模索を描く

— 最後に、近内さんにとっての「理想のケア」について教えてください。

近内 「身体が勝手に動くケア」が大切だと思います。もちろん、あくまでも、どこまでも理想でしかないですが。ケアやコミュニケーションでは、話す内容や、何をするかという行動、行為だけではなく、眼差しや言い方といった身振りを含めてメッセージになりますよね。身振りとして勝手にケアが起こるような身体に変わっていって、できないなというときは無理をせずに誰かに任せるようなあり方が理想かもしれません。

ずっと考えているのは、僕らはいかにしてもう一度、ちゃんと他者とつながることができるのかということ。贈与やケアというのは、私と、向こう側にいるあなたとがつながるための作法、あるいは渡り廊下のようなものです。私とあなたのあいだに架かる橋として、いま新たに気になっているのが「身振り」です。しばらくは、これをキーワードに考えていきたいと思っています。

   
贈与を巡る旅 つながりと身体の倫理学
近内悠太/PHP研究所
今年8月に刊行された近内さんの最新著作。市場経済や効率性からは見えにくくなった「贈与」「ケア」「生きる意味」を、近内さん自身が全国各地を巡りながら探求する
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