モラトリアム延長を目的に始めた小説執筆
— 大前さんは2016年、『GRANTA JAPAN with早稲田文学』の公募プロジェクトに応募した短編小説が最優秀作に選出され、作家として商業誌デビューをされました。以来、繊細で傷つきやすい現代の人々を優しく見つめるような小説を書き続けています。まずは大前さんが小説とどのように出会い、なぜ書き始めたのかをお聞かせください。
大前 国語の教科書などではもちろん小説に触れていましたが、自分から本格的に読み始めたのは大学生だった20歳のときでした。アルバイトを辞めて時間とお金に余裕がある時期に、何か趣味があるといいなと思って当時のインターネットのまとめサイトを見ていたら、「お前らおすすめの小説あげて」というスレッドを見つけたんです。そこには筒井康隆さんの小説やロバート・A・ハインラインのSF『夏への扉』、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』などが挙げられていて、とりあえず買って読んでみたら、すごく面白くて夢中になりました。
それ以来、読書が習慣化したのですが、そのうち読んでいる本に対してイライラを感じるようになりました。「ここでこの言葉を使うのは違うんじゃないか」などといつの間にか書き手目線で考えるようになっていたんですね。そうやってフラストレーションが自分の中に溜まっていったというのがあります。ただ、自分で書くようになった決め手としては、やっぱり「社会に出たくなかった」というのが一番大きくて。スーツを着て働くのが本当に嫌だなという思いが強かったんです。それで、とりあえず大学生のモラトリアムを延長させるために就職活動を途中でやめて、少しでもお金を稼ぐことがしたいなと思って小説を書き始めました。
男性である自分の加害性への気付き
— 2018年に最初の単行本『回転草』を刊行されました。同書に収録されている作品は、アメリカのストレンジ・フィクションのような味わいのある、奇想に富んだ短編が多いですね。一方、2019年に書かれた初めての中編『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』では一転して、ケアやフェミニズムにつながる物語を書かれました。そのきっかけは何だったのでしょうか。
大前 2010年代の後半から、海外のフェミニズム系の本がたくさん翻訳されるようになったので、僕も自然と手にするようになりました。ちょうどその時期に文学の業界でもハラスメントの問題が取り沙汰されるようになり、他人ごとで済ませてはならないような焦燥感を抱いていたんです。それをキャッチしてくれた編集者さんから「女性差別に傷つく男の子の話を書いてください」と依頼を受けて。これまで書いたことのない小説だったし、自分にできるのかなという不安もあって、恐る恐る書き進めていきましたね。
— 確かにチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2018年邦訳刊行)など、2010年代の後半から、韓国のフェミニズム小説がたくさん日本語に翻訳されるようになりました。そのような本を読みながら何を感じていましたか?
大前 率直に言って、自分はこれまで女性の生きづらさを全く想像せずに生きてきたんだなと思いましたし、いかに男性である自分が下駄を履かせてもらっていたかを自覚せずにはいられませんでした。それらの本に描かれている女性たちや作者自身の苦しみを知ると同時に、自分自身も加害性を持った状態で男性中心の文化の中にいたことに気付かせてもらいました。フェミニズムの本を書いている女性作家の方々がどれだけ苦しかったかということに共感すると同時に、自分自身もここに書かれているような加害性を持った状態で、そうした男性中心の文化の中で生きてきたんだなという葛藤、そのどちらもありました。
ぬいぐるみに話すという、セルフケア
— 2020年に刊行された『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の主人公は、男性社会のホモソーシャルなノリへの息苦しさや自分自身の加害性に恐怖する男子学生です。大前さんは当時、彼らのように加害性に敏感な人々を描きながら、どのようなことを考えていたのでしょうか。
大前 現実社会でリアルタイムに起きている事象を題材にして書くわけなので、物語としてパッケージングし過ぎないようにしようとは考えていました。現実的にわかりやすい決着が付くような問題ではないから、落とし所を安易に用意してはいけないな、と。ある事象を物語として描くこと自体が、暴力的な目線を含んでいますし、小説に書くことで何らかの二次加害が生まれる可能性が大いにある題材だなという懸念もありました。だからこそ気を配りつつも、主人公たちのモヤモヤをそのまま文章にできたらなと考えていました。
— そうした主人公の抱える痛みは取材で得られるものではないと思いますが、どのように物語に落とし込んでいったのですか?
大前 フェミニズムの本などを読む中で、自分がそれまで思ってきたことなどを、そのままというわけではないのですが、断片的に使ったりしながら書いていきましたね。
— 登場人物一人ひとりの痛みを想像しながら慎重に書く作業は、簡単ではないですよね。デビュー直後にストレンジ・フィクションを書いていたときよりも苦しい執筆でしたか。
大前 そうですね。単純に登場人物の数が多いと、その分だけ人間関係が生まれてしまいます。そういう関係の中で何らかの暴力性を物語の中に描くのは、たぶん物語になりやすいし、簡単なんです。でも、この小説ではそこから遠ざかりつつ、社会全体にあるような暴力を描くようなものにしようと思ったので、漠然と「何がこの話の中で描きたい暴力で、何が描きたくない暴力なのか」という線引きや距離感を測るのがとても難しかったのを覚えています。
— この小説では、主人公たちのような心に痛みを抱える大学生が、誰も傷つけないようぬいぐるみに話しかける「ぬいぐるみサークル」が描かれています。ぬいぐるみに話しかけて自らをケアするというモチーフはどのように生まれたのですか?
大前 小説の中にも書いているように、つらい出来事を人に吐き出してしまうと、吐き出された側の人がまた傷ついてしまうかもしれない。でも、自分の心の中に言えない言葉をどんどん溜め込んでいくのは、心身にとって単純によくないなと思って。僕たちが誰も傷つけずに言葉を吐き出せるアイテムを何か考えないといけないなと思ったんです。
そういうときに、漠然と柔らかいもので、かつ身近にあって、ちょっと人格を付与できるようなものがあるといいなと考えて、ぬいぐるみにしたという感じですね。今だとAIがそれの代わりになっているような気もします。
— この小説に描かれる人間関係は、男らしさに付帯する加害性に傷つく主人公と、世の中の暴力に痛みを感じる繊細な女子学生、それから主人公が一時的に付き合う現実的な同級生の3人を中心に形成されています。この同級生は社会の中心にも違和感を抱くことなくいられるし、主人公たちのような弱さを抱える人間にも寄り添える、ある種のケア的な存在として造形されています。
大前 作品のメインとして描いているのは、サークルでぬいぐるみに自分のつらさを吐露することでセルフケアを行う大学生たちなのですが、彼らの閉じた世界だけを描いたとしても、「結局これって大学生のモラトリアムだから許されているだけの傷つきやすさなんじゃないの?」となってしまうので、そのケアのコミュニティの脆さを知っている冷静な人物を描く必要がありました。
相互ケアの理想には共感しつつも、現実にはまだまだ厳しさが溢れているんだよという、社会とサークルの間を行き来する人が必要だし、そういう人がいないと届かない読者層がいるだろうなと思ったんです。
— その同級生の存在自体が、傷つきやすい登場人物たちへのケアになっていたようにも感じます。ケアという観点で、傷つくことや摩擦を極度に避けようとする世代についてどうお考えですか?
大前 傷つきやすいことは悪いことでは決してないし、もちろんストレスはなくなっていくべきだとは思うんです。でも、過剰なセルフケアでストレスを排除しすぎることで耐性もなくなっていってしまって、一つのショックや些細なことから受けるストレスがどんどん大きくなっていくような社会に、世界的になっていくんだろうなという予感がしていて。だからこそ、ストレス耐性を上げることもすごく必要というか、相互ケアと同時に自衛のためにある程度の打たれ強さも備えておいたほうがいいだろうなと思います。
— コミュニケーションの摩擦に疲れてしまう現代人が、そうしたストレスに耐えられるようになるためには、どんな考え方が必要だと思いますか?
大前 物心ついたときからSNSに慣れ親しんでいる世代は、何が炎上してしまうのか、どんな言葉が人の不快感を刺激してしまうのかにすごく敏感です。道徳を守ることや場の空気を読むことにとても長けている。それは一面的には他者の尊重といえることですが、人を刺激しないように空気を読み過ぎるあまり、他人と関わる機会自体を減らしていく方向になってしまうのは注意すべきことかなとも思うんです。
傷つけないよう他者に踏み込み過ぎないことは大切ですが、その尊重とディスコミュニケーションは違う。同じ価値観の集団だけに閉じてしまうと、意見が違う他者がイコール敵になってしまいかねない。一人ひとり考えが違うのが当たり前なのに、それにショックを受けてしまうのはもったいない。他者との関わりを可能な範囲で持ち続け、尊重とディスコミュニケーションの線引きに意識的でいたほうが、ストレス耐性は上がっていくんだろうなと個人的には考えています。
“お笑い”の空気に潜む暴力性と“加害者ケア”
— 2021年には、高校時代に一緒にお笑いを志向した3人の男性たちの友情を通して、ホモソーシャルな笑いや「いじり」に潜む暴力性を映し出す『おもろい以外いらんねん』を刊行されました。中編としては2作目の同作で「お笑い」を主題にされたのはどうしてだったのでしょうか?
大前 僕は京都にずっと住んでいたんですが、お笑いが好きで京都や大阪の劇場によく見に行っていました。あるとき、お笑い芸人があえて女性蔑視なことを言い、9割が女性の観客がみんな笑うという光景を見て、「これはいったいなんだろう……」というモヤモヤを抱いたんです。自分の傾向として、心の中で生まれたモヤモヤから小説ができることが多いので、いつか何か書けるかなと思っていました。
ちょうどそのタイミングで、ある芸人がラジオで女性差別的な発言をし、炎上してしまいました。翌週のラジオで彼の相方がゲストに来て、公開で説教をしたんです。ラジオでの発言だけを問題にするのではなく、過去にまで遡って彼の性根を正そうとしていました。僕はそれを聴きながら、その相方が単に彼を糾弾するだけじゃなく、どこか「加害者ケア」をしているように感じたんです。そういう話を僕も書きたいと思ったことがきっかけとなって、『おもろい以外いらんねん』を執筆しました。
—『おもろい以外いらんねん』では主に、ネタのためならどんな笑いも許されてしまう空気に呑まれつつも違和感を覚える主人公の視点で、芸人の道を駆け上がる同級生コンビの成功を見つめるように物語が進みます。しかし、そのうちに視点がその同級生たちに移り、彼らの内面にも潜るような叙述がされます。そのような視点が揺らぐ書き方をされたのはどうしてだったのでしょうか。
大前 そもそもの理由としては、漫画のように書いてみようと思ったからです。漫画は急に主人公じゃない人物の内面が現れたりしますよね。読者はそれでも違和感なく受け止めます。そういう書き方を小説でもしたかったんです。と同時に、そのスタイルを使えばお笑いの本質を表現できるとも思いました。芸人さんにとってお笑いの本体とは「場」や「空気」それ自体であると僕は思っているので、彼らがその場に流れている空気の器となることで、場や空気が喋っているように書けたらなと考えました。
— 主人公は「やさしくあろうとすること」「人を傷つけないでいようとすること」「価値観を変えていくこと」を目指すと、「誰かから馬鹿にされるように」感じると言います。こうした空気の中ではどうすれば違和感を分かち合い、互いをケアできると思いますか?
大前 率直に話し合っていくしかないとは思うんですけど、人によっては本音を話すこと自体が「自分が糾弾されるんじゃないか」と怖く感じてしまう人もいると思うんです。だから大切なのは、どういう立場の人にとっても安全な空間をつくることではないでしょうか。例えば「オープンダイアローグ」(フィンランドで開発された精神医療分野における支援アプローチ。患者とその家族や友人、精神科医だけでなく臨床心理士や看護師といった関係者が1カ所に集まり、チームで繰り返し対話を重ねる)みたいに、「ここでは誰もあなたのことを責めませんよ」というルールの空間、男性社会的な排除やいじりのお笑いとは別のルールがある場所で話し合うことだと思います。
— 同作の後半では、お笑いをやっていた同級生の一人が小説を書きますね。そこで彼は小説と漫才の相似性と相違性を考えながら書いています。似ている点に関しては「描かれているものは本当はそこにはないのに、みんなそれがあるという体を信じている」ことだと言いますが、異なる部分について大前さんはどう思われますか?
大前 さっき言ったように笑いの本質は空気にあるので、同じ空間でノリを共有する人たちが反射的に吐き出すのがお笑いの言葉なんですよね。お笑いという場に要請されることで言葉が生まれていくというか。一方で、小説の言葉はもっと閉じています。ノリや空気とは無縁な場所で紡ぐことができます。だからこそ、同調圧力にも抗えるのではないかと僕は思っています。
消費しやすいキャラクターではなく、揺らぐ個人を描く
— 2026年に刊行された『思い出すときには、すべてのものがまるくなっていてくれ』も、恋愛をテーマの一つとする小説です。同作は恋愛感情を抱いたことのないアセクシュアルの女性を中心とした、誰かを「好き」になるという気持ちを前に葛藤する高校生たちの群像劇ですが、この小説を執筆された経緯についてお聞かせください。
大前 5年ほど前に、版元である左右社の編集者さんから「アロマンティックやアセクシュアルについての小説を書きませんか」というお話をいただきました。『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』のときと同様に、自分に果たして書けるのかなと思いながら探り探り書いていたので、少し時間がかかってしまいました。最終的には高校生たちの群像劇になったのですが、恋愛感情がわからない人物のことを書くのに恋愛を題材にするのってなんだかずれていないだろうか、という思いがずっと拭えなくて。その葛藤や難しさごと表現できないかなと思いながら書きました。
— この作品では、アセクシュアルを自認する主人公と後輩の二人が、恋というものがわからない自分と「普通」とされるものの距離を揺らぐように見つめていますが、大前さんは彼女たちに決して孤独を抱かせませんね。「アセクシュアルの人間は孤独だ、苦しんでいるんだ」という決めつけをしてはならないという大前さんの意思を感じました。
大前 ある人の一つの属性が、その人のすべてを表しているわけでは全然ないじゃないですか。でも、物語のキャラクター造形だと、どうしても性的傾向などの属性だけに焦点を当ててしまいがちです。それにずっと違和感がありました。自分が書いているのもキャラクターではあるんですが、なるべく普通の人のように、一貫性がなく揺らいでいる個人を描きたいという思いがありました。互いの違いを認め合うことが、相互ケアの第一歩になると思うんです。
— 作中には、自身では男性というジェンダーを否認するものの、世の中からは「男性アイドル」として見られる転校生が登場します。クラスで自傷行為の騒ぎを起こした同級生が学校に復帰した際、転校生は破滅的な彼の心の叫びを聞き「かわいそうにな」と呟く。主人公は、誰かに「かわいそう」なんて言ってはいけないと思っていたと戸惑いながらも、それによって同級生が表情をゆるめる様子に驚きます。彼の率直な言葉が一つのケアになっている場面ですね。
大前 世の中には「人にこういうことを言ってはいけません」というマニュアルや決まりみたいな言葉があるじゃないですか。明確な差別表現は当然口に出してはいけませんが、それとは別に「言わないほうが波風が立たないよね」という空気も沢山ある。でも、波風が立たないことが本当に優しい態度、本当のケアかというと、微妙なケースもよくあると思っていて。本当はケースバイケースで何を相手に言うかを選ぶべきだし、自分が心からそう思ったら言ってしまうのは仕方がない。それを何となく空気に従って言わないというのは、本当にコミュニケーションをとれているのか。そんなことを考えながら書いた場面です。
支配ではない、自立を促すケアとは
— 2024年の作品『チワワ・シンドローム』では、間違ったケアの危うさを指摘されていますね。同作ではチワワのピンバッジを勝手に付けられる「チワワテロ」が街中で起こり、その謎を主人公と、インフルエンサーである彼女の幼なじみが解明しようとします。しかし主人公は、幼なじみが配信を通してファンの弱さを利用し、自身の人気を高めていることに違和感を覚えます。彼女はファンをケアし支えると同時に、支配しようとしているのではないか、と。
大前 誰かの弱さに付け込んで一方的に支えようとする行為は、相手のためにならないケアになりがちです。良かれと思っていることが相手を支配していることにつながっているケースもたくさんあります。その意味では、ケアと支配は隣接している概念であるような気がしていて。本当のケアは、相手の自立を可能にするような距離感の下で行われなければならないのではないかと思うんです。
ナイチンゲールが提言した『看護覚え書』には、「看護とは人間の生命力の消耗を最小にとどめられるように整えること」と書かれています。この考え方は今の話につながると思います。つまり、ケアはあくまでも人間が自然と回復できるように働きかける行為のことであり、相手を弱いままにして依存状態にさせるようなものは理想的なケアとはいえないのではないでしょうか。
— 2026年2月に刊行された『プレイ・ダイアリー』は舞台俳優の主人公の日記形式で書かれた小説でした。社会から強要される女性としての役割のようなものを演じる日々のことが書かれるわけですが、日記を書く、役を演じるという2つの表現が、自分や他者に対するケアとして示されているように感じました。
大前 演技について書こうと考えたのは、俳優さんってなんだか不思議な存在だなと思ったからです。演技を通して他者になりきろうとするわけですから、普通の人には経験できないことをしていますよね。でも考えてみたら、小説家も自分ではない人間を登場人物として書いている点では俳優と近い。作家も俳優も、他者について想像するというメンタリティを持っているわけなので、それが他者へのケア的な想像力にどうつながるのかを考えてみようと思いました。
日記という形式を選んだのは、公演の本番までのカウントダウンをしてくれるものを何か一つ用意したかったから。でもおっしゃるように、日記の書き手は自分の生活や自分自身の気持ちをひたすら見つめて書くことになるわけなので、日記は内省という意味のセルフケアになりますね。
— 大前さん自身も日記を「note」に書かれていますが、書きながらどんな楽しみ方をしていますか?
大前 書いた日記をよくAIに読ませています。そうすると、自分の日記を分析して感想をくれたり、変な解釈をしてくれたりするんです。「あなたの日記にはこういう癖がありますね」とか、「最近はずっとこの問題について考えていますよね」とか。それが何か小説を書く上での参考になっているわけではないですが、少なくとも自分を再確認する手段としては活用できていますね。
— 大前さんが日頃、日記以外でセルフケアのために行っていることはありますか?
大前 ストレッチをしたり料理をつくったりすることですね。そもそもあまりストレスと直面しないような生活を心がけています。小説を書くことについては、もちろん疲れはするんですが、執筆自体は全然苦ではなくて、言葉探しが楽しくてやっているだけなので、自然とケアされているというか。それから少し前まで「ぽこ あ ポケモン」というゲームをやっていました。「ぽこ あ ポケモン」は人間が滅びたあとの世界で自分がメタモンになり、街づくりをするゲームです。ポケモンの生育環境を構築して、ポケモンを呼び戻していくわけですが、ポケモンの暮らしを少しずつ整えていくことに、とても癒やしを感じていました。一種のケアになっていたと思います。
物語を通して「自分が相手だったかもしれない」と想像を
— これまでお話をお聞かせいただいたように、大前さんは小説を通して、現代に生きる人間が抱える痛みをつぶさに見つめようとされてきました。誰かの弱さを考える上で、物語のフィルターを通すことの意味について大前さんはどのようにお考えでしょうか?
大前 物語はいろんな人の人生を擬似的に体験できる手段だと考えています。と同時に、この世界にいるのは自分に理解可能な人だけではないということも小説を通して知ることができます。それはさっき触れたストレス耐性を上げることにもつながるし、自分を傷つけようとする何かと出会うときの備えにもなります。それと、自分の人生はこうもあり得たかもしれないというシミュレーションもできるはずです。そうすると、自分と他人の間に想像力を通してつながりができる。「相手の身になって考える」というより、「自分が相手だったかもしれない」という目線で物事を考えることができる。そういう想像力は、支配ではないケア、もしくはケアのようなものにつながっていくのかなと思います。
ただ、そのときに書き手として気をつけなくてはいけないのは、わかりやすいキャラクターを提示しないということです。『思い出すときには、すべてのものがまるくなっていてくれ』の主人公についてさきほど言ったように、属性だけで登場人物を見るのではなく、揺らいでいる個人にとどめておくように書くことを僕は心掛けています。消費しやすいキャラクターを書くのは簡単ですけど、それだと現実に生きている僕たちのような人間とは乖離した存在になってしまうので。
— 最後に今後の創作について、差し支えのない範囲で教えていただけますか。
大前 17歳のヤングケアラーの男の子3人が、ひたすら夜の街を散歩する話を準備中です。ヤングケアラーについて書こうと思ったのは、最近、子ども時代を過ごしている人たちの考え方がどんどん大人っぽくなっているなと感じたからです。コロナ禍以降、彼女・彼らがまるで社会人のような会話をしている姿をよく目にするようになりました。例えば、電車に乗っていても高校生たちがタスク管理の話をしていたりします。もちろん子どもと呼ばれる存在は時代ごとに変わるけれども、果たして大人と同じような価値観を身に付けさせていいのだろうかと思ってしまうんです。
子どもだからという言い方は暴力的だからしたくはありませんが、子どもでいる間は、もっとわがままでいいし、失敗をしたって構わないんじゃないかと僕は考えています。彼女・彼らが失敗を恐れるようになったのは、おそらくSNSを日常的に使う世の中になったこととも関係するのではないかと思います。子どもが全然失敗できない社会の中で、他人に気を遣い過ぎるあまり自分を犠牲にしてしまう人たちが、そんなふうに考えなくてもいいんだと思えるような小説を今、構想しています。












